【2月15日の昔】
長治2年(1105年3月3日) 藤原清衡が奥州平泉に最初院多宝寺(後の中尊寺)を建立。
後三年の役の戦没者を弔う
平泉造営
嘉保年中(1094年 - 1095年)頃には、磐井郡平泉に居を移し、政治文化の中心都市の
建設に着手。1108年には中尊寺造営を開始して壮大な中世都市平泉の原型をつくり、
奥州藤原氏4代100年の栄華の基礎を築いた。
後三年の役
清原家には、清衡の他に、武貞の嫡子で清衡とは血のつながらない義兄の真衡、
武貞と清衡の母の間に生まれた異父弟の家衡がいたうえに、吉彦秀武が清原武則の従兄弟にして娘婿であるなど複雑な血縁関係で結ばれた一族が存在しており、
ややもすると血族の間で内紛が起こり易い状態にあった。
永保3年(1083年)に秀武が真衡に背くと、清衡・家衡は秀武に同調して、真衡が秀武討伐に出羽に向かった隙に真衡の本拠を攻撃した。だが、陸奥守であった源義家が
真衡を支援して清衡・家衡を攻めたため、清衡・家衡は大敗して逃走し義家に降伏した。ところが、出羽に向かった真衡が直後に急死したため、清衡・家衡は義家の裁定で清原氏の所領を分割相続することになる。家衡はこの裁定に不満を持ち、応徳3年(1086年)に清衡の屋敷を襲撃し、妻子眷族を皆殺しにした。難を逃れた清衡は義家に助力を求め、
清衡は義家や難を逃れた同母弟の刈田経元とともに家衡を討ち取った。
後三年の役は清原氏の私闘とされ、何の恩賞もなく清衡にも官位の賞与も無かったが、
一族最後の残存者として奥六郡を領する勢力者となった。時に寛治元年(1087年)
清衡32歳の事である。その後実父の姓である藤原に復し、奥州藤原氏の祖となった。
文政8年(1825年4月3日) 江戸幕府が異国船打払令(無二念打払令)を発布。
江戸幕府が文政8年(1825)に出した外国船追放令。
ロシア・イギリス船の来航の増加に対し、理由に関係なく外国船を打ち払えと命じた。
天保13年(1842)廃止。
慶応4年(1868年3月8日) 堺事件(土佐藩兵がフランス海軍兵を殺傷)
堺事件(泉州堺事件、妙国寺事件)
場所、和泉国堺栄橋通・旭町一帯
標的フランス海軍のコルベット艦デュプレクス号の水兵と士官
原因、フランス人水兵が町で狼藉。捕縛を逃れて隊旗を奪い逃走
攻撃手段、銃撃, 抜刀突撃
攻撃側人数土佐藩士: 29名
武器日本刀, 鉄砲
死亡者11名
負傷者多数
関与者土佐藩六番隊、土佐藩八番隊
防御者数十名
対処駐日仏公使レオン・ロッシュの5つの要求を明治政府は受諾。
被害と同数の土佐藩士11名の切腹。
謝罪明治天皇からの謝意
土佐藩主山内豊範の謝罪
賠償15万ドル