【12月22日の昔】
元亀3年(1573年1月25日) 三方ヶ原の戦い。
〝権現負けるが勝ち〟と、わかったような、
わからないような言葉ですね。
?権現?、家康が、東照宮に奉られてから、ついた
言葉なのですね。

権現とは、神様が人の形で現れた。の意味です。

三方ヶ原とは、今の静岡県、そこに城を築いて、
家臣、8000人ほどの小さな城で、

武田信玄が、4万の兵で、京を目指して進んで来たのですね。武田勢にしてみれば、そんな城などにかまってはいられないの気分で、見て見ぬふりで、通り過ぎようとしたのですね。

それを、察知した家康が
イヤ、この時は〝松平元康〟でした。が、
面倒くさいから、家康で通しましょう。

家康は怒りました。
[わしも武将の一人、見て見ぬふりはなかろうっ]と、
その時から、のちの〝徳川の四天王〟は、
居たのですよ。で、
軍法会議、〝籠城〟と、決まりそうになったとき、
家康が、すくっと立ち上がって、
[領民が苦しんでるのに、見逃すわけにはいかぬ
吾と思わんものは続けっ]と、
単騎、城を飛び出してしまいました。家臣たちが、
〝それっ続け〟と、追いかけたが、準備もろもろで、
遅れた分、殿を見失ってしまったのですね。

家康は、多勢の敵兵に囲まれての苦戦。九死に一命をで、城に逃げ帰りました。

馬上で、ウンコもオシッコもたれてたらしくて、
傍によられなかったそうです。

敗戦なので、それぞれが負傷しての帰城でした。
主だった家臣が、〝城門を閉ざして籠城を〟と、家康は反対したそうですよ。〝けがをして、ヤット城にたどり着いた者がどう思うか?
城門を全部開いて、かがり火を大きく焚いて、
城の在りかを知らせよ〟と、

のちの四天王の一人、榊原が、天守閣に登って、
いずれ全滅を覚悟しながら、武田の様子を見てたら、
茶坊主が、時の太鼓を打ちに来て、太鼓を打ったのですが、まるで音になってないので、?どうしたのだ?、
恐ろしくて力が入りません。なんだとォオ、撥をかせっと、榊原が力いっぱいで、太鼓を叩いたものだから、

武田の先陣の武将が、ハタト足が止まってしまったのですね。もろこしのある武将の戦法が、
頭をかすめたからですね。

すると、家康の城から、節分の豆まきの
声が聞こえて来たので。
?!なにか策略があるに違いが無い?で、武田勢の攻撃は止まってしまったのですね。
~その後、出城の野田城攻めで、信玄は、足軽の鉄砲で討たれて、それが元で、亡くなったのですね~

文久元年(1862年1月21日) 開市・開港延期交渉の
ため、外国奉行・竹内保徳を正使とした第1回遣欧使節団36名が長崎を出港
このような使節団が、フランスやエジブトなどへも、
出かけたのですけど、
開港期限を遅くすることは出来ませんでした。