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寂しい夜と淋しい僕で 気がつけば世界は二人きり

想いは誰にも見えないから、このようにブログにしてみたのです。
ダメな僕を朝日とやらが映し出す時まで

どうでもいいという感情が心の奥底にドロドロと溜まっているときの話。

どうでもいいと思えた時こそ本当の始まりだという説がある。

言わんとすることは分かる。

要はいい面と嫌な面が見え始めてきた時に、それでも対象を好きでい続けられるかという事だ。


しかし、どうでもいいという感情は嫌いという感情とは少し違う。

どうでもいいって案外もう救いようがない状態のような気がする。


「嫌い」という感情には「好き」の反対という側面がある。

それは数学で言うところの「逆」の性質だ。

つまり嫌いなものは何かの拍子に好きな方へと好転する可能性を秘めているのだ。

もちろん全ての局面において当てはまるとは言えない。というかそんな絶対的な事象なんて人間関係の中に存在するはずがない。しかし「好きな人」の「嫌いな側面」を愛することはできるケースがある。

魅力に恋して、欠点で愛する。

それがきっと理想の夫婦像なのだと思う。


では、どうでもいいという感情はどういうものか?

実はどうでもいいという感情も「好き」の反対の側面を持っている。

でも「嫌い」という感情とはどこか違う。一線を画している。

「どうでもいい」という感情に「逆」の性質はない。

どうでもよくなってしまうと、もう何を刺激されても心が沸かなくなってしまう。

「好き」→「どうでもいい」

という変化があったとしても、

「どうでもいい」→「好き」

に戻る心境の変化は0.0001ミリ程度しか期待できない。そんなの誤差の中の誤差の範囲だ。変化しないと言ってもいい。つまり、一度どうでもよくなってしまうと、二度と好きにはなれない。

どうでもいい存在に始まりを告げることなんてできない。


それでも、「どうでもよくなってからが始まりだ」という説は正しいと思う。


結婚はどうでもいい感情と永遠向き合い続ける事が必要条件なんだと思う。

それでも、もうダメだと思えてならない時はくる。

妥協とか離婚とかでは決して解決しない不条理が僕を襲いかかってきた時、果たしてどうすればよいのだろう。


僕には祈りが足りていないのではないか?

宗教の話しをしているのではない。

そもそも一つのことにのみ傾倒するような人間は嫌いだ。

それでも、祈りが足りないのだと思う。 

残念ながら、どうでもいいという感情を抱いてしまったら、その関係に将来なんてない。

そして一度切り捨てた関係は二度と元の通りには修復しない。

さらにはすでに費やしたお金も時間も元には戻らない。

全てが不可逆的なのだ。

どうでもいいという心境とは、もう二度と戻らないモノを手放すか否かを永遠天秤にかけられた状態で硬直しているということだ。

こうなってくると、もう自分の幸せを祈るほかないのだ。

全てを時の流れに身を任せて。

生きるか死ぬか。

別れるか別れないか。


繰り返すが、宗教の話なんて一切していない。

それでもただ幸せになりたいだけなのだ。僕は。私は。