寂しい夜と淋しい僕で 気がつけば世界は二人きり -19ページ目

寂しい夜と淋しい僕で 気がつけば世界は二人きり

想いは誰にも見えないから、このようにブログにしてみたのです。
ダメな僕を朝日とやらが映し出す時まで

行く川の流れは絶えずして、

しかも本の水にあらず。

ああ、川の流れのように、

ゆるやかにいくつも時代が過ぎて。


『方丈記』×『川の流れのように』




色んな事が起こりうる人生。

行動に起こした分だけ、

その可能性は広がる。

それはいい方向に進むかもしれないし、

最悪な結末を生み出すかもしれない。


結婚したい女優○年連続第一位の

石原さとみに結婚を申し込んで成功し、

子どもをもうける人もいれば、

語学留学に行った結果、

韓国でハロウィーンに参加して、

群衆の将棋倒しに遭って亡くなる人もいる。


不公平な世の中だ。

たぶんどちらも何も悪いことはしていないし、

むしろ誰にでも胸を張って誇れるような人生を

歩んでいると思う。

僕はどちらの人生も羨ましいように思う。

同時に自分の人生を少し寂しいものに思う。




でもね。


僕が思うのは、もう一つあってね。

それは、あらゆる出来事は、

ことの成り行きに身を任せた結果、

来るべくして来たものなんだろうなってこと。


予定調和とも言うべきか。

条件が揃ったらからか。

起きたことは起きた。

起こることは起こる。

たとえそれが、報われない結末だったとしても。




人生の中には、きっといくつものターニングポイントがある。

でも僕らがそれを即座に重要な局面だと気づくことは、ほぼ無い。

何か選択を迫られたとき、または選択を迫られているとすら気づかないとき、大抵僕らは安易な選択を取ってしまうのかも知れない。

何もよく考えず、近視眼的に世界を見ていると、事実よりも何の根拠もない淡い期待を選んでしまう。

これは年末ジャンボ宝くじを買う時の思考と似ている。決定的に違う点は、ターニングポイントとはある日突然やってくるというところだ。

予期せぬ分岐に突入した僕らは、斯くも根拠のない可能性を過信してしまい、ほぼ直感でその選択を取ってしまうのかも知れない。

あるいは、全てを気分次第で選んでいるのか。


そして、限られた情報の中で行った選択が原因で、数分後あるいは数日、数年後に来るべくして訪れた未来に直面して思う。

「あれは間違った選択だったのではないか。」

そう思った途端に、焦る。

あれが重要な転換期だったのではと、

ハッと気付かされてしまう。

でもそれはもう、起きたこと。

一つの選択肢を選んだ故の、結果でしかない。

意図せず選んだ道だとしても、

何かを選択した以上は、

起こるべくして起きたことは、起きた。

起こるべくして起こることは、起こる。


形而上での数々の選択こそが、

今の自分であり、いつか迎えるハッピーエンドやアンハッピーエンドの世界の源なんだと思う。


そう、今の自分は、

来るべくして来たんだよ。

明日死ぬ君も、そう。

明後日生まれてくる君も、そう。




ところで、起こるべくして起こる未来というのには、悲しい事に法則性がない。

ターニングポイントにおいて、僕らは意思で道を選んだとしても、結果的にそれが間違っていたという事はザラにある。思いつきで買った株が大暴落しているような人は幸薄い。

反対に、直感的に選んでいるだけで危険を回避できる人だっている。そういう人は、特別な事は何もしていなくても、あみだくじを選べば何かしら当たりを選ぶような人なんだ。


選んで仕舞えば、そこに結果がついてくる。

然るべき未来が訪れてしまう。

繰り返しになるが、世の中は選択肢を見誤る人がほとんどだ。

しかし、チートとも呼ぶべき直感力をもって危機回避する人が一定数いるというのも事実ではないか。


ああ、そういう運の良いやつにはどう足掻いたって敵いっこないんだ。

羨ましいという言葉はこういう時のために使うものなんだな。




明日もきっと僕らには無数の選択機会が与えられる。

それを選んではハズレ、選んではやや当たりを繰り返していくのだろう。

何かを選んだら最後、その結果を変える事はできない。決められた導線を歩き続けるしかない。

もしも川の流れのように、決まり切った危険な未来を柔軟に免れて生きていけるなら、僕らはみんな老衰か自殺で死ねるはずだ。

そうじゃないという事は、つまり人生は流動的に漂っているのではない。

待ち構えているのだ。

来たるべき未来を据えて。いつその道へと行く分岐点に巡り合い、誤った道を選んでしまうのかを秘密にして。。。