昨日、訪れた渋谷区3-4-7の豊栄(とよさか)神社境内の「庚申塔群」は、明治以降庚申塔/庚申塚がどのように扱われてきたかを物語っています。
神社境内の片隅の「日陰」にずらっと並べられている庚申塔。これらはもともとここに置かれていたわけではありません。そもそも、豊栄稲荷そのものも1961年に、渋谷駅近くにあった「渋谷氏」創建と伝えられる「田中稲荷」と同じく渋谷駅近くの道元坂にあった「豊澤稲荷」が場所を移されて「合祀」された神社です。
そして、その際に両稲荷内やその周辺に置かれていた庚申塔や周辺地域の「庚申塔」が集められたと思われます。
第二次大戦後に、東京のサラリーマンが住む新しいベッドタウンへの中継地として急発展した「渋谷」の街です(サザエさん一家が住んでいることになっている「世田谷区桜新町」はその典型)。江戸時代は「青山」で終わり、渋谷・世田谷は田園地帯でした。そして明治以降ここに多くの大学や高校が開かれます。豊栄稲荷のある場所近くの「旧常盤台」地域には東京農大や國學院大学が広い敷地を持ち(東京農大の場所はいまの青山学院へと引き継がれ)、開発が進みます。
つまり田園地帯→学園遅滞→商業地域へと、おおいに変貌したのが「渋谷」で、その変貌はいまも続いています(ここ10年間の街の変貌はもの凄い)。
こういう時代の流れに伴って、「庚申塔/庚申塚」を支える地域共同体も大きく変貌(解体・再編成)され・・・・もともと宗教性が薄い「庚申塔・庚申塚」は行き場を失った?
そして集められ、さらに集められて「庚申塔群」ができあがった?
渋谷区渋谷3丁目の豊栄稲荷に置かれた「庚申塔群」はなかなかの場所です。なんとなく境内の片隅に置かれているのは「神社仏閣内」の「庚申塔/塚」の常とはいえ、もったいないです。場所さえあれば、境内の外に立派なお堂を建てて安置してほしいけど、いまや渋谷の地価は高いし、「庚申商店街」を作るような街作りでもないから(大企業の開発プロジェクト下にある)からそれは叶わぬ夢かな。
☆写真は1枚目が今朝写した「ドクダミ」の紅葉。今年は猛暑でしたが、南方系のドクダミが元気でした。2枚目は豊栄神社の片隅に並んでいる「庚申塔群」。正面奥が神社本殿です。3枚目以降は並んでいる庚申塔。さまざまなパターンがあります。最後の1枚は渋谷区教育委員会による「庚申塔群」の説明文。「江戸時代に庶民の娯楽を兼ねて流行し」てと、思い切った説明がされています。
↓去年の今日のブログです。「超風土論」を提起!それは、「日本」の文化・風土は、日本が地震(津波)・火山・台風などの世界有数の「天災地域」であることによって形作られた。っていう私流の考え方。