「列島詩集」第5号~6号は前衛的。詩論は「ただもの」的だけど・・・変わり目? | あと猫の寿命ほど。如露亦如電2024

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  2013年58歳の春に「うつ病」でダウン。治療に4年半。気づくと還暦を過ぎました。
  66歳になった2020年夏に「ああ、あと猫の寿命ぐらい生きるのか」と覚悟。世の中すべて如露亦如電です。

ニコ 「列島詩集」を読み続けています。

ショボーン 正直言って、「列島詩集」は「詩の雑誌」としては、まったく面白くありません。だからか、「荒地詩集」と並び語られることが多い「戦後詩」の代表格とされるのに、Web上の情報はほとんど無く、いまでは忘れ去れつつある「列島」。そんな「列島」をブログで取り上げても、カウントはまったく上がりません。寂しい限りです。

 

ニヤリ  語られない、忘れられつつある大きな理由の一つは「(現在読んだときの)つまらなさ」ですが、もう一つは「列島」に参加した詩人たちが、「列島」を語らないからではないか?とも思えます。当事者たちが(いまでは多くは鬼籍に入られている)語ってきたのか? 「列島詩人」は「列島」後にも、詩を多く書いて、活躍していますが・・・・。私が学生の頃の1970年代に「列島」は「詩誌」で取り上げられたけど、それは常に過去形だったかな? 列島詩人は「新日本文学」あたりで活躍中でしたが・・・。

 

ニヤリ 「列島」は、まず強く「政治的」で日本の社会主義的文化運動における「前衛的」としての雑誌としてスタートしました。

 しかし、その活動は戦後しばらくは日本の左翼運動において「唯一無二」の存在としてあった日本共産党の路線に強く影響され、コミンフォルムの「指導」や、「党」の路線の大転換に翻弄されたと思います。このことの背景については先週の火曜日に簡単に触れましたが、とにかく、「党」「社会主義運動」があっての「列島でした」。「列島」は「詩と詩論」を掲げていますが、その「詩論」(文化運動論)のほうに力点が置かれていたといえます。

 「列島」の性格(これも創刊時から、「党」の動向を受けて常に左右している)をとても良く示している「詩論」に関わる文章が「列島」第5号(1953年8月発行)にあります。この号のトップに置かれている(ただし目次では最後に置かれている=このへんに編集サイドにおける葛藤が見えるかもしれません)「海外詩論特集」。そのリード(前文)です。次に引用します。

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 孤立した詩作活動にたいして集団的詩作活動が平和擁護運動の一環としてわが国の文化の領域に絶対的比重を占めるに至ったが、集団的詩作活動そのものを前進させる詩論は、残念ながら確立されていない。このため批評は概して印象批評の形でしか行われず、未だに孤立した詩作活動が技術の優位を誇るかにみえるが、新しい芸術運動は集団を足場として孤立の壁を突き破るところにあるはいうをまたない。「サークル詩の分析」(前号)を総合したけっか、われわれは初歩的な、しかも政治的な要請を踏まえた詩論--あるいは詩の原理を集団の詩人が速やかに会得するならば、孤立した詩作活動の技術の優位性は根底から覆るであろうことを確信した。

(以下略)

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 これは、まさに「前衛」としての方針です。「(戦後の)サークル詩」を前進させるための方針。「列島」とはこのような存在として(党によって?)位置付けられたのでした。

 

えー 第6号(1953年10月)では、「現代詩と新詩運動の立場」という特集が組まれ、まず「現代詩の衰退と再建」という、木島始、関根弘、花岡次郎という「列島詩人」による「分析」があり、これをうけて以降各論的に「夢のない夜」(荒地詩集)、「時間を忘れた「時間」(時間詩集)等々と、当時活動していた詩サークルや同人誌について、批判的に分析しています。が・・・、いま読めば、なにも言っていないのと同じような「唯物史観("ただものしかん"と呼べば良いような)」と「党の方針」に依存した評論の羅列です。そして批判された詩誌に掲載されている詩に比べて、当の「列島」の詩は、悲しくもいまだに不出来です。

 一番問題なのは、列島に参加した詩人たちが「戦前と戦中」に詩人としてどのように過ごしたか? という戦後文学問題の最大テーマである「転向論」「文学者の戦争責任論」にまったく触れられないことです。これは「列島」を編集している詩人たち自身の問題として、まず語られて、そしてその総括が必要だったはずです。 

ショボーン 自らの「戦争」や「全体主義」に触れることなく、他の戦後詩同人や戦後詩詩集を批判する「列島」と列島詩人。そのようなあり方は、いま読むと、とても異様です。まるで「列島」の編集サイドの詩人たちは戦前・戦中の全体主義に「同調」したように、戦後のコミンフォルム体制とその「前衛党」に同調しているように思えるのです。「同調圧力」問題は、最近では「オリンピック」や「コロナ禍」で生じているから、常に大きな問題ですが・・・。

 

もぐもぐ いまマスメディアが、「コロナ事態」と「オリンピック」をめぐって、まるで戦前・戦中の大政翼賛報道のようになっていますが、こういうときにも「文化人」の責任論が日本では未熟なことがわかります。「列島」にしてからが、それができていなかった?「報道責任」と「同調圧力」、それは今も大きな問題です。

 

 このような「列島」誌上には優れた「詩」が、なかなか現れません。「列島系」の詩人たちが優れた詩を送り出すのは、「列島」が廃刊になったあとのことになりままが、その列島は第7号から少しずつ変わり始めます。第6号~7号は「列島」の変わり目ともいえます。

 

☆写真は30年ほど前のGW、オートバイで長野などに旅行したときに写した畑の中の猫。2枚目以降は、「列島(詩と詩論)」5号と6号の表紙と目次です。