1955年、私が生まれた頃に「荒地派」詩は、時代と市場に埋もれて行きはじめます。 | あと猫の寿命ほど。如露亦如電2024

あと猫の寿命ほど。如露亦如電2024

  2013年58歳の春に「うつ病」でダウン。治療に4年半。気づくと還暦を過ぎました。
  66歳になった2020年夏に「ああ、あと猫の寿命ぐらい生きるのか」と覚悟。世の中すべて如露亦如電です。

の書きかけの手紙のひとことが
ぼくの心を無残に引き裂く
一週間たったら誕生日を迎える
たった一人の幼いむすめに
胸を病む母の書いたひとことが


  黒田三郎「引き裂かれたもの」から

かけていこう
はやく かえろう
円くなって寝ている母のもとへ


  鈴木喜禄「母」から

 


 「荒地詩集」を読み続けています。
 1955年の「荒地詩集」。私が1歳のころ、日本が間もなく訪れる高度経済成長期の準備をしているようなときに組まれた「荒地詩集1955」には、戦後の「日常」「生活」「家族」といったものがテーマとして目立ってきます。と同時に「荒地」の鋭さと緊迫感が薄れているようにも感じます。

 


 “かれらは、日本の近代詩史上、はじめて、ほんとうの意味での思想性を詩のなかにみちびいた。彼らの詩の方法が一種の古典主義にかたむき、彼らの詩の主題が、いちじるしく倫理的であることは、そのまま、彼らの出現の意味を保障している。(中略) 「荒地」グループは、その極限状況の体験が現代の日本の社会情況のなかで、実現しえるあいだ、その存在の意味をうしなうことはないとおもわれるが、すでに、敗戦革命は完敗し、よみがえった日本の戦後資本制が、安定恐慌期にはいろうとしている現在、あきらかに転換をしいられている。”

 

 吉本隆明「叙情の論理/日本の現代詩論をどうかくか」から

 


 経済学者J・K・ガルブレイスが「ゆたかな社会」を著し、戦後世界の「豊かさ」のあり方を世に問うたのは1958年。その「豊かさ」はやがて日本社会にも、、朝鮮戦争特需、高度経済成長というかたちで現れてきます。人々は豊かさを「市場」において(レジャー産業のように)享受していくのですが、それは「荒地」的世界が商品に埋められていく過程でもありました。そして「荒地詩人」の多くもその「商品」「市場」世界に埋もれていき(その鮎川信夫は「荒地」にこだわり続けていきますが)、自然、時代や状況と対峙する「荒地詩」は消えて、詩人の身辺やノスタルジックな世界を描くようになっていきました。

 「荒地」のあとに、谷川俊太郎さんや長田弘さん、やがて「あたらしいぞわたしは」という荒川洋治さんなど、多くの新たな担い手が出てきましたが、果たしてそれらは、「詩」として時代と社会に向かい合えたのでしょうか? 

 

私にはどうしても言えない、

ほんとうはポプラがなんであるかを。

 

  牟礼慶子「ポプラ」(荒地詩集1955)から

 

☆写真は、東京・北新宿から百人町あたり。このあたりは「荒地派の雄」鮎川信夫の縁の地です。