「うつ」治療が終わり「記憶力」が戻りました。で、今あえて「記録」を手書きで残そうと思う。 | あと猫の寿命ほど。如露亦如電2024

あと猫の寿命ほど。如露亦如電2024

  2013年58歳の春に「うつ病」でダウン。治療に4年半。気づくと還暦を過ぎました。
  66歳になった2020年夏に「ああ、あと猫の寿命ぐらい生きるのか」と覚悟。世の中すべて如露亦如電です。

ニコ 鬱の時代のことです。

 

 2013年4月からの4年余にわたる「うつ治療」がほぼ終わっても、「うつ」でダウンする前の3~4ヵ月間の「記憶」は戻りませんでした。この「失われた記憶」、今も戻っていません。

 

 そして気がつきました。そもそも、その3~4ヶ月間、私は「記憶する」能力が著しく落ちていたっていうこと。その時に「記憶」出来ていないのだから、今になって、「その時の記憶」がよみがえるはずはないのです。

 

 ただし、その「記憶が戻らない」数ヶ月間の「記録」は驚くほど残っています。私は、もの凄い量の「記録」をあらゆる所に残していたからです。手書きのメモは手帳やノート、ポストイットなどあらゆるところに残され、またPC・ワープロやスマホもどき(ipodtouchです)にも文章が多く残されています。
 
  その日その日の話し合ったことや行動が詳細に残されているのです。
 
 「こんなに書いて、よく腱鞘炎にならなかったものだ」、と思うほど。(左手はすでにギターで「ばね指」になっていたので右手がやられたら、悲劇。でもやがて、ダウン→眠りと治療の時が訪れたから・・・。それで良かった??)
 
 おそらく、「記録」を残し続けていた私は、一方で会話や会議や打ち合わせなどの会話内容を、記録と同時に忘れ続けていたのだと思います。だから次々と「記録」しないと訳が分からなくなった?
 
もぐもぐ 記録はあるけど記憶が無い。その日に何をしたかは文章を読むと分かるけど、しかし私にはその実感がない。これ、不思議な感じです。
 
 記憶と記録が乖離していました。酷い「うつ」はこういう状況を生むようです。
 
 うつ治療にはいると、「記憶力」は戻りました。それに従って「記録」の量はとても減りました。
 最近は、白紙状態が目立つ私のメモ帳やノートを見て、「もうすこし記録を残しておく必要があるかな?」と思っています。このブログの「再開」の動機も、そんなところにあるかもしれません。「記憶」に頼らず「記憶しておこう」って。
 
 今年は、手書の文章を増やそうと思っています。手帳やノートに、「手書きで記録を残す」ことや、友人に手書きの手紙を書くとか。
 高齢者の「ぼけ防止効果」もあるか? 手書きによる日常の記録。やや増えてきています。
 
びっくり うつ治療に「その日自分が出来たことを書いてみる」というのがあるそうです(私はやっていませんが)。三つとか十とか、その日に出来たことを書く。これは「無力感」を癒やすわりと有効な方法のようですが、「記憶」を確認して、自分を位置付けるという面でも良いのかな?
 ただし、会社人間=仕事人間が昂じてうつになってしまった私の知人のように、書くことに「頑張って」しまい、その日にできた事を十書けば良いところを「百項目」も書こうとして、「書けない!」って落ち込むケースもあります。この治療法、その人の基礎的な性格に合わせた方が良いかも。
 
☆写真は昨日に北参道(渋谷区)で写した、寒桜? それとガード下の気になったパイプ配管。