『水戸黄門』、『大岡越前』、そして『江戸を斬る』、TBS月曜8時「ナショナル劇場」枠のドラマを振り返るとき、思い起こすことはたいてい三つある。

 

まず、視聴率も絶好調で他にも人気番組がずらりと揃っていた、民放ナンバー1の時代だったTBSで放送されていたこと。二番目は番組枠名の通り、松下電器と松下電工による松下グループの一社提供番組であること。三番目は当たり前といえば当たり前だが、時代劇であること。

 

一方で勘違いされていることもある。それは、“東映が制作していた”ということ。これは間違ってはないが、正確ではない。「ナショナル劇場」のこれら時代劇における制作および著作管理は、C.A.Lという制作会社が行っている。東映はその下請けに過ぎず、外注制作に特化した子会社の東映太秦映像が請け負い、監督以下スタッフ陣や仕出しの俳優たち(斬られ役、長屋の住人や通行人etc…)、スタジオ(東映京都撮影所)を用意して撮影や編集の工程を手掛けていた。それらを川の流れに喩えて下流部分だとすれば、企画や台本づくり、レギュラー俳優やゲストのキャスティングなど上流部分は、制作会社C.A.Lのプロデューサー、C.A.Lの親会社である広告代理店・電通からキャスティング担当、番組スポンサーである松下電器産業(現・パナソニック)の東京宣伝事業部長だった逸見稔らが仕切っていく。都内で週一回行われていたその制作会議の場に東映はおろか、TBSのスタッフさえもいなかった。

 

制作プロに外注される番組というのは、テレビ局側のプロデューサーが企画を立てたり、あれこれ注文していって、制作プロはその意向に沿って仕立てていくのが慣わしなのだけど、「ナショナル劇場」の場合は、スポンサー側のプロデューサー・逸見稔がそれを担当している、つまるところ、松下グループの持ち込み番組だったのである。だから、放送するTBSは制作に関しては半ば蚊帳の外で、上流部分で作ったもの、もしくは作ろうとしているものが、放送法だったり、TBSの内部基準に適しているのかをチェックするだけで、月曜8時の枠を貸しているという立場であった。さらには、どの作品も常に高視聴率を獲っていて、好調だったTBSの足を引っ張るものでもなかったから文句の付けようもなかったのである。

 

こういった制作体制で作られていた「ナショナル劇場」の時代劇路線ではあったが、長い歴史の中で一本だけイレギュラーなものが存在する。それが、1979年2月12日~1979年8月6日まで放送された西郷輝彦主演『江戸を斬るIV』。

 

江戸を斬る・第4部|ドラマ・時代劇|TBSチャンネル - TBS

 

上流部分は引き続き制作会社のC.A.Lと逸見稔によって手掛けられ、下流部分の東映太秦映像は外され、替わりに三船プロダクション(以下、三船プロと略)が担当している。

 

三船プロについて簡単に示すと、日本を代表する俳優の三船敏郎が興した制作プロで、東京都の世田谷区成城と調布市にまたがる広大な敷地に撮影スタジオと時代劇のオープンセットを持っていたことから、時代劇の作品を撮影から編集まで自前で賄えることが出来た。

 

三船プロの強みをもうひとつふたつ挙げれば、社長である三船敏郎を主役でも脇役でもキャスティング出来ること、そして都内にあること。

 

とくに都内にあることが最大の強みとなっていた。当時のテレビ時代劇は、京都太秦界隈と都内近郊の東西二拠点で作られていて。京都太秦界隈は、東映京都撮影所に限らず、松竹系の京都映画撮影所、旧大映京都のスタッフらが興した映像京都など一流どころが揃っているのだけど、主演やレギュラー出演者の多くは都内近郊住まいだったことから、その行き帰りの距離と時間がたいへんで、出演を敬遠される理由の一つとなっていた。

 

世田谷にある三船プロと国際放映スタジオはほど近く、多摩川を挟んだ川崎市には生田スタジオがあり、調布市の日活撮影所にも時代劇のオープンセットがあった。時代劇の制作において“本場”という概念を持ち出せば、誰しもが都内近郊よりも京都太秦を挙げるのだが、俳優たちにとっては、自宅から近い、他の仕事と掛け持ちが容易に出来る、という点で断然都内近郊であった。

 

またもやお得意の『太陽にほえろ!』(1972年7月21日~1986年11月14日まで放送、制作:日本テレビ-東宝テレビ部)で例を示すと、山さん役の露口茂は、その番組開始時に東映京都撮影所で撮影されていた『お祭り銀次捕物帳』(1972年5月6日~8月26日まで放送、制作:フジテレビ-東映)へも掛け持ちでレギュラー出演していた。以後も東映京都撮影所で撮られた『編笠十兵衛』(1974年10月3日~1975年4月3日まで放送、制作:フジテレビ-東映)に準主役で出ていて、掛け持ちしていたその半年間における一週間のスケジュールは『太陽にほえろ!』と『編笠十兵衛』とも三日ずつ、残り一日がオフであったが、そのオフも移動時間に消されてしまうこともあったりと都内近郊と京都太秦を掛け持ちすることは、どうしてもハードスケジュールとなってしまうのであった。

 

ところが、『太陽にほえろ!』と同じ国際放映スタジオで撮られていた「江戸シリーズ」二作目の『江戸の旋風II』(1976年4月1日~1977年3月31日まで放送、制作:フジテレビ-東宝テレビ部)に初回からレギュラー出演しだすと『江戸の激斗』(1979年5月31日~12月27日まで放送、制作:フジテレビ-東宝テレビ部)まで三年半以上に渡ってその間の「江戸シリーズ」すべてにレギュラーで毎週出演し続け、京都太秦で制作するテレビ時代劇には出演しなくなっていった。ゴリさん役の竜雷太も、その同時期に出演したテレビ時代劇は所属の三船プロが手掛けるものしか、つまりは都内近郊でしか仕事はしてなかった。『太陽にほえろ!』はこうしてレギュラー出演者が他の作品へ出ることの弊害として途中休養なんてすることなく、いつも全員が揃っていたわけなのである。

 

さて、話を『江戸を斬るIV』と三船プロのことに戻そう。

 

『江戸を斬るIV』が京都太秦にある東映太秦映像ではなく、都内の三船プロが撮影など下流部分の制作を手掛けていたのは、上述した理由の通り、出演者の都合によるものであった。

 

具体的な名を挙げれば、それは松坂慶子。竹脇無我主演の一作目『江戸を斬る 梓右近隠密帳』(1973年9月24日~1974年3月25日まで放送)から出演し、西郷輝彦に主演が替わって設定も変わった『江戸を斬るII』(1975年11月10日~1976年5月17日まで放送)と続編『江戸を斬るIII』(1977年1月17日~1977年7月11日まで放送)に、その西郷輝彦の相手役、つまり準主役であり、番組の売りともなっていた謎の女剣士・紫頭巾こと雪役で出演していた彼女の存在は、番組にとって至宝である一方、ネックともなっていた。

 

「江戸を斬る 梓右近隠密帳」 | 茶屋町吾郎の趣味シュミtapestry (ameblo.jp)

 

当時まさに松坂慶子はナンバー1女優であり、主役かその相手役で出ずっぱりの連続テレビドラマがひっきりなしに作られていて、年々そのスケジュールは取りづらくなっていた。だから、掛け持ちが容易ではない京都太秦での仕事は敬遠されてしまい、『江戸を斬るIII』から続編の『江戸を斬るIV』まで一年半も間が空いてしまっていたのだ。

 

そこでC.A.Lと番組スポンサーの責任者・逸見稔が出した采配は『江戸を斬るIV』を都内近郊での撮影に移すことにした次第。で、選ばれたのは三船プロ。こうして松坂慶子のスケジュールを確保したのである。

 

ただ、C.A.Lと逸見稔は大上段にやったわけではなく、東映と東映太秦映像には相当な根回しをして、補填とそれ以上の見返りを施している。

 

『江戸を斬るIV』と同時期の、東京12チャンネル(現・テレビ東京)による放送で、『大岡越前』で和田浩治が演じていた同心の風間駿介が主役の時代劇『疾風同心』(1978年9月20日~1979年3月14日まで放送)とその続編『八丁堀あばれ軍団』(1979年3月21日~1979年6月13日まで放送)を東映太秦映像で制作しているのだ。

 

また、1978年12月23日公開の東映映画として、キャストもスタッフもテレビドラマ版とまったく同じ『水戸黄門』の製作も“許諾”している。“許諾”というのは、テレビドラマ版とは逆転していて、C.A.Lが製作協力、東映が製作・著作となっているのである。なお、この映画版『水戸黄門』には三船敏郎も出演。当時、三船は東映京都撮影所が手掛ける劇場用映画へ頻繁に出演しており、三船プロが東映太秦映像から引き継ぐのはカドが立たないし、ごくごく自然な成り行きともなっていった。

 

映画「水戸黄門(1978)」|ホームドラマチャンネル (homedrama-ch.com)

 

自社制作ではなく下請けながら、三船敏郎も『江戸を斬るIV』の制作には意欲的であった。三船は元々キャメラマン志望であり、ツテを頼った当時の東宝にはその採用の空きがなくて俳優採用でとりあえず入社してから配置転換してもらうまでの腰掛けと捉えていたのが俳優になったきっかけなのだから。後年、三船プロを興したのも、叶わなかった夢のキャメラマンを追体験出来たのに加え、自分の自由自在に撮影出来るスタジオを持つことはあの頃の夢以上に叶えられた出来事であった。だから物心ともに三船プロのスタジオ運営に情熱を注ぎ込んでいた。

 

それに、高視聴率を獲れているドラマの制作プロから頭を下げて頼まれるかたちで引き受けたのだから気分が悪いわけはないし、「これが成功したら、いや成功間違いなしの番組なんだから評判を得て、これから自社制作と下請け制作を並行させるには、撮影所の敷地をもっと広くして、スタジオ棟をもっと増設して…」と今度は事業拡大の夢も思い描いたことだろう。

 

制作記者会見や、固定セットで初撮影する際の“火入れ式”と呼ばれる鏡開きへも積極的に出席し、撮影現場へも度々顔を出していたという。もちろん“特典”である自身の出演もあり、それは満を持して春改編期真っ只中の1979年4月2日に放送した第8話「辻斬りは北辰一刀流」に、その役どころもこの上なく、西郷輝彦演じる主役の遠山金四郎と松坂慶子演じる紫頭巾こと雪の、剣の師匠・千葉周作として。

 

ただ…

 

この1979年4月2日夜8時、テレビ朝日では裏番組に期首特番として、三船敏郎主演&三船プロ製作の映画『風林火山』(1969年公開作品)を放送したのだ。なんともまぁ…、三船にとっては面目丸潰れの事態である。

 

1979年4月2日(月)の番組表

『江戸を斬るIV』に出演していた関口宏司会のTBS『クイズ100人に聞きました』と

同じく出演していた大山のぶ代が主役の声を担当したテレビ朝日のアニメ『ドラえもん』が

ともに始まった歴史的な日でもある。

 

なぜ、こんなことが起こってしまったのか?

 

『江戸を斬るIV』の放送が終わった1979年8月に表面化した、三船プロのお家騒動に遠因があるかと思う。

 

三船プロは会社の規模が大きく、製作部と撮影スタジオがある成城の本社とは別に所属俳優のマネージメントをする芸能部の事務所が銀座にあったという。そこを仕切っていたのは田中壽一という人で、竜雷太、勝野洋、多岐川裕美、秋野暢子ら錚々たる面々の、ほとんどの所属俳優を引き連れて独立してしまったのだ。

 

三船プロの崩壊の最大の原因を、裏切者田中壽一が語る!「愛人が○○だったから…」 (star-director.info)

 

まだそのお家騒動が表面化するには四か月以上あったが、『江戸を斬るIV』は三船敏郎肝入りの案件だったのに、自社作品『風林火山』の放映権を売ったテレビ朝日と調整を付けられなかったのは、会社の運営が一枚岩でないことを暗示していた。

 

ただ、次作『江戸を斬るV』の撮影が京都に戻り、再び東映太秦映像が手掛けたのは、三船プロのお家騒動勃発が事情ではない。『江戸を斬るIV』はたしかに三船プロと都内近郊のスタッフらで作られてはいたが、作品の色を替えたくないから監督だけは東映京都撮影所からおなじみの面々が派遣されていた。慣れぬ土地で慣れぬスタッフを束ねるのは相当の苦労だったことだろう。だから、上流部分の事情で無理して松坂慶子を拘束するのは諦めて、下流部分の撮影現場スタッフ本位で作ることにして、それで良い作品作りを目指したことが伺える。