高校時代の渡辺徹は、生徒会の活動でたまたまやった演劇に目覚めて、ほとんどそれだけの経験で、卒業後の1980年に「演劇界の東大」と言われる文学座付属演劇研究所を受験して、その数2300人のうちで合格者わずか60人のひとりに選ばれて入所。そして早くも一年の後、1981年に文学座と縁深い『太陽にほえろ!』の新人刑事・ラガー役に抜擢。まさにラッキーボーイそのものだった。
1981年8月の新人刑事登場記者会見時に撮影された広報写真
ボスこと石原裕次郎はまだ療養中のため、この場には不在であった
追悼・渡辺徹さん 太陽のような明るいキャラクター(ニッポン放送 NEWS ONLINE) - goo ニュース
これは1981年11月のボス=石原裕次郎が撮影復帰して
そのスタジオでゲスト出演者も含めて祝ったときのもの
番組の渡辺徹推しは凄かった。登場した1981年9月25日から1982年に入る前後まで三話にひとつは主演エピソードが作られていく。11月6日放送の第482話「ラッサ熱」では凶悪犯を追いかけてどこまでも疾走するといった、その若さあふれるアクション回もあれば、12月4日放送の第486話「赤い財布」という回では『太陽にほえろ!』史上一番小さな事件で!?、主婦が落として大学生が交番に届けた財布を巡るトラブルに“小さな親切、大きなお世話”で首を突っ込んだ青二才のラガーが右往左往するものまで、アクション刑事ドラマでありながらも番組の基軸である青春ドラマ100%のノリで作られていった。
登場から四か月後の1982年2月に早くも次の新加入刑事・ジプシー=三田村邦彦が登場してきてもラガー=渡辺徹の推される勢いは変わらなかった。すでに三田村はスター俳優ではあったのだが、都内ではなく京都太秦で撮っていた時代劇『新・必殺仕事人』(朝日放送-松竹)と掛け持ちだったので、主演エピソードも登場当初から限られていたのが理由にある。キャスティングされた段階で三田村も番組制作サイドもそれは承知していて、ジプシー=三田村の存在はイチオシで推されるというよりも遊撃隊的に配置されていったことから、登場したばかりの新人・渡辺徹の存在は埋もれていくことはなかったのだ。
徒然なるままに、「太陽にほえろ!」に出ていたジプシーの赤いヒラメセリカ | 茶屋町吾郎の趣味シュミtapestry (ameblo.jp)
登場時のジプシー=三田村邦彦は一匹狼のクールキャラであったことから
ラガー=渡辺徹が体現した、番組の基軸である青春ドラマ100%のノリからは外れる
新人俳優・渡辺徹が登場した1981年、まだまだ数多あった他の刑事ドラマでも新人俳優を新人刑事として起用していたのだけれども、やはり渡辺徹ほどの脚光を浴びる者はいなかった。相変わらず、前置きが長くなってしまったなあ…、というわけで、今回の記事は、同時期の刑事ドラマにおける新人俳優の新人刑事について語っていきたい。
筆頭は、ラガー=渡辺徹と同時期に登場し、それも『太陽にほえろ!』と双璧をなしていた『Gメン’75』(TBS‐東映)の藤川清彦だ。ラガー=渡辺徹の登場から二週間後、1981年10月10日放送の第331話「新GメンVSニセ白バイ軍団」で登場した。当時21歳、半年前に主演の丹波哲郎主宰による演劇塾・丹波道場の第一期生となったところを番組のプロデューサーに見初められて抜擢されたという。
しかし、『太陽にほえろ!』のラガー=渡辺徹が恵まれた境遇の一方で、『Gメン’75』の風間刑事=藤川清彦は不遇そのものである。一世一代であるはずの登場回は主演エピソードとは言えず…、ようやく主演エピソード回が作られて放送されたのは加入して三か月後の年明け1982年1月になってから、それもただその一回だけ。そして番組は春改編期の4月で終わってしまう。半年後の秋改編期に再開させた続編の『Gメン'82』にも出演出来なかった。結局、末期の『Gメン’75』に半年間出演しただけで俳優を引退していった。
本来ならば逸材なはずの新人俳優による新人刑事役。でも、TBSも制作元の東映も彼を若手スターにしようという気概がまったく感じられなかったのだ。これはどういうことか?、番組が1979年春に日本テレビから裏番組『熱中時代・刑事編』をぶつけられて全盛期から一気に斜陽期へと入っていったのがそもそもの原因。あと、同じく裏番組で、何本かにひとつは同じ制作元の東映が制作に入っているテレビ朝日「土曜ワイド劇場」の台頭もあって、『Gメン’75』における番組としての存在は袋小路に追い込まれていく。
「Gメン’75」を喰った水谷豊主演「熱中時代・刑事編」 | 茶屋町吾郎の趣味シュミtapestry (ameblo.jp)
当ブログやツイッターの投稿などでも引用することが多くなったので
原題「5月、ホームドラマチャンネルで水谷豊主演「熱中時代・刑事編」から改題
1982年4月に終わった『Gメン’75』の後番組は、その裏番組のテレビ朝日「土曜ワイド劇場」に真っ向からぶつけた単独2時間ドラマ枠「ザ・サスペンス」。TBSにとって大型企画の番組だけに、当時だったらふつうは番組の立ち上げには半年前から掛かるようなところ、毎週入れ代わり立ち代わりで大物俳優を起用したり、脚本を作る前に人気作家の原作権を求めることもあって、一年以上前からやっていたかと思う。なので、『Gメン’75』は1981年に入ったあたりくらいからそういう事情で番組の終わりは見えていたはず。かつて土曜9時の同時間枠でやっていた、不甲斐ない視聴率の『バーディー大作戦』を自ら打ち切りにして、期首改編までの制作契約残り十数話分を起死回生の秘策『Gメン’75』に切り替えて制作契約延長を図ったときとは事情が全く異なる。貧すれば鈍する。新人・藤川清彦は「どーせ、終わるのだし」と怠惰で緩慢な制作環境においてコネ起用でねじ込まれ、たんに丹波道場第一期生の成功例として喧伝させたにすぎなかった。
ベテラン・谷村昌彦は藤川清彦とともに『Gメン’75』最後の加入メンバーとなった
それ以前は常連ゲストで、刊行中のDVDコレクションでは
現在40冊以上あるうちの三冊も表紙に顔が載るほど(笑)
さて、お次は、石原プロ制作「西部警察」シリーズに出演のジョーこと北条卓刑事=御木裕。大学生時代、テニスで交遊を持っていた石原裕次郎の兄・石原慎太郎に見初められて石原プロに所属し、1980年11月2日放送の無印『西部警察』第55話「新人ジョーの夜明け」で俳優デビューを果たす。演劇の基礎をなにも得てこなかったからか、当初は素人目に見ても拙い演技だったのが、日々の鍛錬で一年もするとこなれた演技が出来るようになっていった。
ただ、人気の面ではイマイチだったように感じる。番組で共演する寺尾聰、御木の加入後から再出演する舘ひろし、1982年5月30日放送開始のシリーズ第2弾『西部警察PART-II』を機に寺尾のその代替で加入してきた三浦友和ら諸先輩俳優たちに及ばず、陰に隠れる形となってしまった。『太陽にほえろ!』に出演の渡辺徹は、番組で共演する神田正輝、三田村邦彦らと当時のアイドルで超絶的人気のたのきんトリオにちなんでミワカントリオと呼ばれていく。そのキャリアは別にして神田、三田村と同格に世間は捉えていたのだ。この比較からでも如何に渡辺徹が光り輝いていたのがリアルタイムで触れていなくても窺い知れることだろう。
最終回まで計四年間にわたって出演した「西部警察」シリーズは当時もいまも人気ドラマだけに御木裕の名前やその存在は知られているものの、その後は石原プロが制作したドラマか、或いは関係を持っていたドラマくらいにしか出演していかなかった。1986年開始の『あぶない刑事』(日本テレビ-セントラルアーツ)は同じ石原プロ所属で主演・舘ひろしのバーターでしかない。御木裕が演じる役は、当初は同じ石原プロ所属だった峰竜太が演じる予定であったのだけど、制作開始前に降板した経緯もある。
石原プロは所属俳優に関してはこちらからは売り込まないで依頼されたものしか請け負わない体質だったという。御木裕のようにカメラの前に立たせておけば、“そのうち育ち”、自社制作のそこで名を売っておけば、“そのうち”他所からお呼びがかかるだろうといった具合に。御木裕の次に石原プロおよび『西部警察PART-III』へと入ってきた新人・石原良純もそのパターンであった。ご存じのように、石原は“そのうち”育ったのとバーターを利用して『太陽にほえろ!』へ加入してくる。
後年に石原プロが「21世紀の石原裕次郎を探せ」と銘打った新人オーディションをやろうとした際、“そのうち”育つ自社制作のドラマも久しく作っていないし、作ったとしてかつてのように年単位で永続的には出来ない時代で、元から無かった新人育成のノウハウに加えて、そういった土壌も持てないことから、当時社長であった渡哲也は反対したのだけれども、ジリ貧だった石原プロを亡き“石原裕次郎”の金看板で再興しようとしたコマサこと小林専務に押し切られて行う羽目となった逸話がある。