『太陽にほえろ!』再放送ヒストリーは、さすがにちょっと飛ばしすぎているので、ここで気分転換も含めてブレイク。

 

再放送に関して悠久の歴史を辿っていくと、幾つか気になる事柄が出てきた。そのひとつが1980年前後における深夜放送の自粛について。現在のような24時間放送体制になったのは1980年代後半からで、それまでは深夜2~3時で放送終了し、朝は6時前後から放送開始する編成。その間は、カラーバーや“砂嵐”で休眠していた。

 

1979年、いわゆる第2次オイルショックが起こったことにより、国を挙げての省エネルギー(省エネ)となる。それで、政府の要請もあって、テレビ業界も深夜枠の放送時間短縮という措置を執って協力していく。

 

その第2次オイルショックが起こる前の1970年代後半、民放各局とも上述のように月曜から木曜は深夜2時付近まで、週末の金曜と土曜は深夜3時付近まで放送していた。ただ、放送内容はどこも横並びで、日付が変わる0時を過ぎると古い映画かドラマの再放送、あとはゴルフのレッスン番組くらいで、いまのようにバラエティー番組というものはあまりなかった。

 

テレビがまだ一家に一台というのが普通の時代だっただけに、日本テレビが『11PM』をやっているような午後11時台になると視聴者が激減する。さらにそこから先になると、ほんとごく一部の人しか観ていなかった。なので、新規制作番組なんか放送出来るはずもなかったのだ。まあ、端から見ても切りやすい、犠牲にしやすい時間帯だったと言える。それから、この時間帯は大企業がドカンと枠を買って気っ風良く払っているものではなく、いわゆるスポットCMという安い料金体系のCM枠で、ホテルやサウナ、飲食店、繁華街の店レベルがお客様であった。

 

第2次オイルショックが始まった1979年の夏、この状況にいち早く対応したのがTBS。7月から平日の編成は、他局がまだ悠々と午前2時近くまで放送していたというのに、午後11時半からの再放送ドラマ一本を放送した後は、5分番組の天気予報だけで午前0時半台には放送終了。ただ、これは政府にこびたわけではなく、TBSとしての営業方針から来ていたらしい。

 

1979年6月8日(金)付けの朝日新聞ラテ欄掲載コラム「放送界」には、TBS社長記者会見の記事としてこの趣旨が載っていたので、掻い摘んで御紹介。

 

TBS社長「夜おそくまでやるのは深夜しかテレビを見ることができない庶民のためという意見があるが、胸をはって庶民に役に立つ番組をやっているといえますか。再放送権料こみで作った古い番組や名作と抱き合わせで買ってきた映画のはけ口になっているのが実態。放送してしまわないと損をするからやっているだけなんだ」(原文まま)。

 

しかし、値段が安いスポットCMでも番組を放送すればそれだけ収入があるわけだから、塵も積もれば・・・で、それ相応な額となるはず。このことに関して、本音を吐露している。

 

TBS社長「CMの数をふやしてかせごうという考え方が間違っている。それよりもまずCMを正規の値段で売ることを考えたらいい。そのために番組の質の向上をはかるのが本筋だ。いまの深夜放送でカネもうけしようというのはCMをダンピングしようというようなもの」(原文まま)。

 

この頃、テレビ局を悩ましたのは、CMのダンピングが横行していて、それが正規料金徴収のさまたげになっていたこと。いまのような深夜生活を送る人がほとんどいない時代だったから、CM料金は元から低めで、しかもTBSは深夜の入り口たる11時台に他局が『11PM』や『プロ野球ニュース』など生ワイド番組をやっている横で魅力に欠けるドラマの再放送か無名の映画だったから相当買いたたかれたかと思う。ゴールデン帯でも人気番組の裏番組となるとCM料金のダンピングをしないとスポンサーになってくれない事情があり(当時は視聴率30%以上獲るような“一人勝ち”の番組がいくつもあった)、その悪影響が全日で蔓延しかけていることが伺える。

 

そして、1980年1月に、政府の要請を受けた民放連番組委員会は「平日の放送終了は午前0時台、週末もできるだけ配慮」として、全局でその年の4月から実施されることとなった。



深夜テレビ自粛スタートを伝える記事

見出しに〝減収にもじっと我慢〟〝ほぼ姿消した午前1時以降〟〝おなじみ番組 映画もカット〟

朝日新聞1980年4月4日(金)付け夕刊「TVあらかると」コーナーより

*コピーの写りが悪くて文字が見えづらいかと思います。どうぞご了承を。


 

深夜枠短縮寸前の1980年3月、日本テレビ深夜の再放送枠は次の通り。月曜は現代劇の『消えた巨人軍』、火曜は時代劇の『子連れ狼』、水曜はアメドラの『鬼警部アイアンサイド』、木曜と金曜が映画というラインナップだった。前年に自主的に短縮させていたTBSは金曜と土曜をそれぞれ30分短縮しただけで編成的に大きな変動はなかったが、他のキー局は5~7時間という大幅な短縮を被ることとなり、とくに日本テレビは最大の7時間で、一日あたりにして1時間減だから、これにより深夜の再放送ドラマと映画は軒並み消えてしまった。

 

日本テレビにとって“再放送のゴールデン帯”と言えるものはやはり午後3時~6時半の枠(一時間ドラマは午後3時と午後4時の二枠)で、ここでまず本放送が終わってから最初の再放送が掛かる。深夜枠では再放送二回目などの、いわば“二番館”的な扱いであった。

 

さて、深夜放送短縮で、再放送出来る枠が減少してしまったことにより、本放送時の制作費に“色”を付けるかんじで幾らか増額して支払って得た、その制作会社との間に結んだ再放送権が切れてしまった作品が続出。だから、制作会社を介さない局の自社制作ドラマなどは後回しにされてしまったために本放送かぎりというものが多い。

 

日本テレビでは、1980年秋から平日午前10時半の時代劇再放送枠が新規に作られたものの、1982年4月からは午後3時の一時間ドラマ枠が消滅して午後4時からの一枠しかなくなってしまった。現代劇などはますます再放送がしづらい状況となっていったが、1982年11月に省エネはピークが過ぎたと判断して、以前のように午前2時近くまでやる深夜枠の再放送ドラマを復活させることとなった。それで他局も日テレに追随することに。

 

1983年、フジテレビが午前3時半過ぎまでやる生放送のバラエティー番組『オールナイトフジ』を放送して成功させる。翌年には他局もその時間帯にこぞって参入していき、まずは週末深夜に生放送番組が花盛りとなった。そして、1980年代後半のバブル景気到来とともに平日深夜でも新規制作番組が普通となると、いよいよ深夜番組ブームが起こり、終夜放送が当たり前となっていったのだった。