前回から九ヶ月後、1981年2月24日(火)より再開し、今回は“テキサス登場からボン刑事加入を経てのテキサス殉職編まで”二年分(1974年9月~1976年9月)の2回目となります。ただし、時間帯はいつもの4時枠ではなく、唯一の3時枠というものでした。

 

日本テレビ3時枠の再放送、前年1980年夏場は夏休みの学生に向けて『西遊記』(1978年10月~1979年4月)と『西遊記Ⅱ』(1979年11月~1979年5月)を投入し、学生が去った秋からは時代劇の杉良太郎主演『新五捕物帳』(1977年10月~1982年11月)に切り替わりました。明けて1981年1月20日からは後番組として高橋英樹主演『桃太郎侍』(1976年10月~1981年9月)が第1話から始まるも、わずか一ヶ月、第22話で終了して、今回の『太陽にほえろ!』テキサス登場~殉職編が始まった次第です。なお、今回の3時枠での再放送スタート時における4時枠のほうは中村雅俊主演『ゆうひが丘の総理大臣』(1978年10月~1979年10月)をやっておりました。

 

この当時、日本テレビ4時枠の一時間ドラマは関西ローカルのよみうりテレビと同調して、つまり同じものを放送していましたが、3時枠の一時間ドラマは互いに別編成でして、よみうりテレビはこの時期は『新五捕物帳』、『大追跡』(1978年4月~1978年9月)などを放送しておりました。

 

始まって一ヶ月後、3月後半に入ると、三日連続の巨人オープン戦中継で休止する日が出てきます。この三連戦のうち二日目は雨天中止となりまして『太陽にほえろ!』が放送されました。それで調べてみて面白かったのは、いままでのように番組休止させてプロ野球中継に充てたからといって、その日予定の放送回は翌日にスライドさせるのではなく、一旦飛ばして後日に振替放送していたことです。

 



1981年3月24日(火)日本テレビの番組表(同日の朝日新聞ラテ欄より)

 

3月23日(月) 第132話「走れナポレオン」

 

3月24日(火) 【番組休止】…オープン戦中継のため

3月25日(水) 第134話「正義」

3月26日(木) 【番組休止】…オープン戦中継のため

3月27日(金) 第136話「生命を燃やす時」

 

3月30日(月) 第137話「ありがとう、テキサス坊や」

 

3月31日(火) 【番組休止】…『特別生中継!! さよならピンク・レディー』のため

4月01日(水) 第138話「愛こそすべて」

4月02日(木) 第139話「墓穴を掘る」

4月03日(金) 【番組休止】…巨人軍応援特番『GO!GO!ジャイアンツ・めざせ日本一!!』のため

 

4月06日(月) 第133話「沈黙」・・・3月24日(火)雨天中止の場合による放送分の振替

 

4月07日(火) 第135話「ある敗北」・・・3月26日(木)雨天中止の場合による放送分の振替

4月08日(水) 第140話「故郷の父」

 

ゴールデンウィーク中の5月4日(月、振替休日)に「巨人×阪神」のデーゲーム中継で番組が休止されまして、この時の雨天中止だった場合に用意されていた第157話「対決!6対6」も順延ではなく、やはり一旦飛ばして翌週に廻されるという措置が執られました。ご存じのように『太陽にほえろ!』は連続ドラマと言えども一話完結型のドラマですから、放送回を多少入れ替えたところで支障は来しません。

 

ゴールデンウィーク中は他にも、4月29日(水、当時は天皇誕生日)に桜田淳子主演映画『若い人』(1977年 東宝・サンミュージック、ちなみに小野寺昭が相手役)で、5月5日(火、こどもの日)は歌謡特番『ヒットスター大集合!! 岩崎・河合・松田新三人娘誕生?』でそれぞれ休止して、ちょっともたつきます。

 

さて、1980年代前半の午後3時台というのは、再放送というよりもワイドショーの時間といったほうが通りが良いでしょう。当時、TBSでは『3時にあいましょう』、フジテレビでは『3時のあなた』を放送していました。昔やっていたドラマの再放送を観るか、芸能ゴシップニュースを観るか、まあ人それぞれですけれど、いまもあんまり変わりないようですね。

 

しかし、この『太陽にほえろ!』唯一であった3時枠での再放送、皮肉なことが起こります。1981年4月25日(土)、『西部警察』(テレビ朝日-石原プロ、1979年10月~1982年4月)の撮影に参加していた石原裕次郎が突如倒れて、芸能マスコミが大騒ぎになりました。週明けからはワイドショーも連日メインで扱うようになります。なので、その裏でやる(一応は)主演ドラマの再放送というのがなんとも奇妙なことになっていきます。当然、リアルタイムの裕次郎は“生きるか死ぬか”ですから、そっちのほうにチャンネルを合わせてしまいます。



1981年4月30日3時台の番組表(同日の読売新聞ラテ欄より)



裕次郎の大手術は新聞の社会面でも大きく取り上げられる。

 

結局、これがキッカケとなるのか、日本テレビ系列は翌1982年春に3時台の一時間ドラマ再放送枠を撤廃。前時間帯2時からの『2時のワイドショー』(よみうりテレビ制作)の時間枠拡大するかたちで、3時15分まで芸能情報に特化したコーナーを入れて、TBSとフジテレビのワイドショー番組に対抗していくようになります。そして、半年後の1982年秋からは他局よりも10分早い2時50分から始めるワイドショー番組『酒井広のうわさのスタジオ』を始めていきました。

 

 

1982年10月4日付け読売新聞掲載の新番組スタート広告

 

ゴールデンウィークを過ぎると当時は9月まで祝日はないわけですから、それによる番組休止はなかったものの、6月8日(月)に「鈴木善幸首相記者会見」と7月6日(月)「都議選開票速報」(*当時は翌日開票)による報道特番で二回休止します。また、7月29日(水)は、英国王室チャールズ皇太子とダイアナ妃の結婚式が行われた日でして、日本テレビは大々的に一日中特番体制を組んでいて、3時枠の『太陽にほえろ!』もそれで番組が休止と相成りました。今回の再放送期間中における番組休止は計10回。年末年始を挟まなかったのでそれによる長期休止期間はなかったんですが、ちょくちょくと入っていくようになります。

 

7月31日(金)、第216話「テキサスは死なず」で今回の再放送は終了。3時枠、翌週8月3日(月)からは8月31日(月)まで〝夏休み特集!〟と題して、系列のよみうりテレビが制作していたバラエティ番組『びっくり日本新記録』(1975年10月~1985年10月)とアニメ『ドロロンえん魔くん』(フジテレビ-東映、1973年10月~1974年3月)の再放送二本立てとなっていきました。冒頭でも示したとおり、3時枠は観る人に合わせて季節ごとに傾向が変わっていきます。

 

1981年2月24日(火)~7月31日(月)までの3時枠で『太陽にほえろ!』をやっていた時における4時枠のラインナップは以下の通り。

2月19日(木)~4月17日(金)『ゆうひが丘の総理大臣』(1978年10月~1979年10月)

 

4月20日(月)~6月16日(火)『熱中時代(第2シリーズ)』(1980年7月~1981年3月)

6月17日(水)~7月22日(水)『熱中時代・刑事編』(1979年4月~1979年10月)

7月23日(木)~9月16日(水)『あさひが丘の大統領』(1979年10月~1980年9月)

 

『あさひが丘の大統領』が終了した翌日の9月17日(木)から10月19日(月)まで、『太陽にほえろ!』の姉妹番組たる『俺たちは天使だ!』(1979年4月~1979年11月)。そして、その後番組に、なんと三ヶ月も経たないうちに『太陽にほえろ!』が再開されることとなりました。1981年は年柄年中『太陽にほえろ!』の再放送を観ていたような記憶があるのはこういうわけだったんですね(笑)。

 

が、またまた波瀾万丈の再放送スケジュールとなっていきます。

 

それは、また次回に。

 

 

○だん吉・なお美のおまけコーナー

 

この当時、東京12チャンネル(現・テレビ東京)では午前9時から現代劇の再放送枠がありまして、それまで自局が制作局となっていたメロドラマみたいなのばかり流していましたが、1981年5月18日(月)から中村雅俊主演『俺たちの旅』(日本テレビ-ユニオン映画、1975年10月~1976年10月)の再放送が始まります。枠は途中で一度消滅するも、ここから1986年3月まで、1970年代から80年代始めにかけての他局制作で人気があった青春 or ホームコメディー or アクションドラマが放送されていきました。そのラインナップは、おもに日本テレビが制作局となったユニオン映画か東宝の制作ものばかりでしたので、夕方3時・4時枠再放送の“二番館”みたいな趣だったかと思います。


 

1981年5月18日(月)の東京12チャンネル番組表(同日の読売新聞ラテ欄より)