アニメ専門チャンネルのアニマックスでは今日の深夜から久々に『機動戦士Zガンダム』を放送開始する。
アニマックス公式 『機動戦士Zガンダム』紹介
http://www.animax.co.jp/program/NN00014461
『機動戦士Zガンダム』のあらましを簡単に紹介すると、“ファースト”と呼ばれる名作『機動戦士ガンダム』(1979年4月~1980年1月)の七年後における世界を描き、その前作の登場人物たちも再登場する直接的な続編。ガンダムシリーズとしてテレビアニメ化されたのも二作目にあたる。1985年3月から一年間放送され、引き続きさらに続編の『機動戦士ガンダムZZ』も作られるなど、以降のガンダムのシリーズ化とブランド化に道筋を付けたものであった。
ご存知のように『機動戦士Zガンダム』の前作『機動戦士ガンダム』は、1979年の本放送時は視聴率不振で終盤は話数短縮で打ち切りに終わった作品ではあった。が、すぐに再評価を受ける。夕方の再放送とプラモデルで火が付き、元からあったアニメブームの中、本放送時からの青年層(いわゆる番組スポンサーのおもちゃを買わなかった層)の支持と合流して三部作で映画化もされて1980年代初頭に一大ブームを作った。その後も定期的な再放送と作品に出てこないメカまで続々とプラモデル化するなど根強く支持されていく。
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http://www.gundam.info/topic/5613
1983~1984年にガンプラの発売元であるバンダイから発行されていた“副読本”的なもの。
1980年代前半、『機動戦士ガンダム』が起点となってアニメ業界は“ガンダム”の模倣作品で溢れる。いわゆるリアルロボットアニメというもので、その“ガンダム”の製作元である日本サンライズ(現・サンライズ)も基幹事業としていくのだが、本家本元自ら『機動戦士ガンダム』を越えるヒットは作り出せずにいた。
で、そういったジレンマのなかで続編の制作となったわけである。テレビ版と映画版の『機動戦士ガンダム』の制作を総指揮し、再び任された富野由悠季が本意でなかったことは知られている。氏の続編制作に掛ける複雑な想いは、井荻隣の名義で作詞した主題歌『Z・刻をこえて』にすべてが込められていた、かと自分は考える。
『機動戦士Zガンダム』OP
https://www.youtube.com/watch?v=YGBw4uCZ4hA
「Z・刻をこえて」歌詞
http://j-lyric.net/artist/a007bf9/l00b557.html
さて、今回語りたいのはこんなありきたりなアニメ評論ではない。『機動戦士Zガンダム』における劇伴のことである。
前作の渡辺岳夫・松山祐士から替わって、劇伴を担当したのは三枝成彰(当時は三枝成章)。東京芸大を院卒したクラシックの音楽家である。すでにそれまでテレビドラマや映画などの劇伴も多数手掛けていて、『機動戦士Zガンダム』の仕事もその一環であった。ただ、意外なことに、三枝は『機動戦士Zガンダム』のオファーを受けたとき、“ガンダム”について知らなかったのである。
CD『Z GUNDAM BGM COLLECTION』ライナーノーツより三枝成彰の記述
いまでこそ、老若男女に知れ渡る“ガンダム”ではあるが、1980年代前半における“ガンダム”とは、アニメというジャンルのなかと子供文化の範疇でしかなかった。だから、1942年生まれで、当時42歳だった三枝が知らないのも当然と言える。それから、三枝には当時11歳になる子供がひとりいたのだけど、娘さんであったことも一因があろう。
ちなみに、自分と三枝の娘さんは同じ年齢である。それで当時の記憶を照らし合わせると判る。男の子はガンダム、そしてガンプラ、あとは同時期に流行の『キン肉マン』なんかに熱中していても、そういったものになんら興味を示さないのが同級生の女子。その逆もまた然り。女子における興味、男子がたとえば少女漫画とかファンシーグッズと呼ばれるものに興味があったのかなんてのは考えたことがない。
当ブログ記事 男は不可侵!?80'sファンシーカルチャー本『ファンシーメイト』発売
http://ameblo.jp/goro-chayamachi/entry-11886522170.html
親だってそうだ。親は子供が何に対して興味があるか日々の生活の中でイヤでも知るものだ。でも、男の子だけを持つ親と女の子だけを持つ親とでは、一緒に観るテレビ番組から会話まで何から何まで違う。だから、娘だけしか子供がいなかった三枝に“ガンダム”の情報が入ってこないわけがそこにもあったはず。
それで、後年になって『機動戦士Zガンダム』が映画化されたときのインタビューであったか、三枝は元となったテレビ番組版『機動戦士Zガンダム』を引き受けた際、“ガンダム”の凄さについて知っていた人になにげに話したところ、「家が建ちますよ」と返ってきてたことが信じられなかったらしい。
三枝は『機動戦士Zガンダム』に至るまで、アニメ番組の劇伴を二本手掛けていた。最初は1980年秋から日本テレビで一年間放送された『鉄腕アトム』のリメイク版。この誰もが知る超有名作のリメイクは当時話題となったものだが、その頃のアニメブームとは掛け離れたものであって、青年層のアニメファンが買うようなBGM集のレコードなどはさほど売れはしなかった。二つ目は1982年秋に同じく日本テレビで放送された『忍者マン一平』。こちらは知る人ぞ知る作品である。
トムス・エンタテイメント公式 『忍者マン一平』紹介
http://www.tms-e.com/search/index.php?pdt_no=93
自分の少々悪いクセで、ここからしばし話がズレるのをご容赦願いたい。日本テレビ『忍者マン一平』はフジテレビ『Dr.スランプ アラレちゃん』(1981~1986年)の大ヒットにより、その二匹目のどじょうを狙って制作したものである。『Dr.スランプ アラレちゃん』は視聴率だけではなく、何十社からもキャラクター商品が生み出されたマーチャンダイジングによる莫大な収入をもたらしていた。日本テレビはそこを当て込んだのだ。『忍者マン一平』は『Dr.スランプ アラレちゃん』同様のファンシーな世界に、スラップスティックな内容を詰め込んだもので、メインのキャラだけではなく、ひとクセありそうな感じのモブキャラも同様に多い。いくらでも商品が生み出される素地があった。しかし、視聴率は最初から振るわず、アニメ番組としては短命なわずか13話、1クールで終わってしまう。なので、関連商品は最初に出した、ごく一般的な子供向けのものばかりで、『Dr.スランプ アラレちゃん』の夢を見た日本テレビの〝取らぬ狸の皮算用〟は誤算に終わった。結局、日本テレビは方針修正して、今度は『週刊少年ジャンプ』掲載中だった『キャッツアイ』のアニメ化権を手に入れて制作する。1983年、『キャッツアイ』は番組のヒットばかりではなく、杏里の主題歌、BGM集もヒットしてその成果を収めていく。
で、話をそろそろ戻しておこう。いままで関わった二つのテレビアニメ作品による雑収入の恩恵を受けられなかった三枝にとっては、「家が建ちますよ」とは狐につままれた思いであっただろう。しかし、ウソではなかった。放送開始の翌月にリリースされた『機動戦士Zガンダム BGMコレクション VOL.1』はオリコン初登場15位を記録。その後も『VOL.2』、『VOL.3』も立て続けに出されるなどして好セールスとなった。前作ほどのヒットや社会現象は生み出せなかった『機動戦士Zガンダム』ではあるが、この作品から以降しばらくガンダムシリーズの音楽を担当した三枝には相当な印税収入がもたらされていく。
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しかし、三枝は印税を貯め込んだり、「家が建ちますよ」を実践して豪邸建築などには使わなかった。では、なんに使ったか?というと、ライフワークであるオペラに使い続けているのである。自らが責任持って制作するオペラは億単位の赤字を抱えていく。その補填として『機動戦士Zガンダム』、それ以降も手掛けた“ガンダム”関連でもたらされた印税が注がれている。
活字中毒R。 「機動戦士ガンダム」に貢がれ続ける男
「週刊朝日」(朝日新聞社)2006年8月4日号の「マリコのゲストコレクション」第325回より。
