この前新幹線で福岡に帰った時、いつものように小倉駅に停車した。
この小倉は私の産まれた街なのだが、実は私はもうあまりこの街を見たり訪れたりしたくない。
嫌な思い出があるからとかでは無く、優しかったおばあちゃんの記憶ばかりが蘇り、辛くなってしまうから。
私の母がたの小倉のおばあちゃんは私の母がまだ小さい頃、女手ひとつで私の母とその姉の二人を育てていた。
当時、小倉では有名だった旅館で女ながらに料理長を務めていたおばあちゃんは凄く料理が上手で、また仕事も教育も凄く厳しくて怖い存在だったという。
私の母も叔母も、この旅館でおばあちゃんと一緒に働いていたのだが、二人ともおばあちゃんに酷く叱られたり叩かれたりしていて、おばあちゃんの事をあまり良く思っていなかったと言う。
しかし今私がこうしていられるのも、おばあちゃんのおかげである。
当然と言えばそれまでだが、私の死んだ両親が結婚できたのはおばあちゃんのおかげだからだ。
京都の田舎町出身の私の父は、当時地元では割と有名なサッカーの選手だったらしいのだが、商売がしたくてサッカーを辞め、自ら会社を経営し始めた。
出張先の小倉でたまに泊まっていたのが先ほどの旅館であり、そこで私の両親が知り合ったのだが、私の父は、この料理長の娘と結婚したら毎日さぞや美味しい物が食べられるに違いない!と思ったらしい。
死んだ父から昔この話を直接聞かされた事がある。
もしおばあちゃんが料理が上手じゃなかったら、私は今こうしていなかったのかも?
とにかくおばあちゃんは厳しくて怖い存在だったと、色々な人達から聞かされた。
でもおばあちゃんは私には凄く優しかった。
私がまだ小倉にいる小さい頃、おばあちゃんは脳梗塞で倒れ、半身不随になって特別養護老人ホームに入る事になってしまった。
それでも小倉の街外れの小高い丘の上にある老人ホームにおばあちゃんに会いに行くと、お菓子をくれたりお小遣いをくれたりした。
としちゃん(私の事)がお母さんにもし酷い事をされたらおばあちゃんが助けてあげるからいつでもおいでね!と声をかけてくれたりもした。
私が行く度に凄く喜んでくれて、泣きながら手を握ってくれたおばあちゃん。
だから福岡を離れてからも、何度もおばあちゃんに会いにその老人ホームに行ったが、いつも車椅子に乗りながら喜んで出迎えてくれたものだ。
おばあちゃんは約20年前に、83歳でこの世を去ってしまったが、私は今でもおばあちゃんの優しかった記憶が鮮明に残っている。
だからおばあちゃんの思い出しかほとんどない小倉の街を見ると、なんだか凄く胸が締め付けられてしまう。
おばあちゃんが他界してからしばらくして、今度は私の母が脳梗塞で倒れて寝た切りになり、そのまま還らぬ人となった。
障がい者になって辛い思いをして死んでいった母やおばあちゃんにはもう何もして上げられない。
だからせめて障がいを抱えながらも自分と同じパワーリフティングの世界で頑張る人達の為に、私なんかでも何か少しでも力になれないものかと前々から考えていた。
もちろん金銭的な見返りなど、はなから求めていないが、そのような気持ちで自分なりにずっと努力してきた事が今回のトルコ大会ではなんだか報われたような気がして本当に心から嬉しかった。
私はいつもコーチ、セコンド、監督、通訳としてより以前に、一人の人間として選手に接しているつもりだ。
今回も金メダルを獲得して喜び狂う選手の姿を見て、一人の友人として素直に一緒に喜びを分かち合う事が出来た。
こんな素晴らしい経験が出来たのも、優しかったおばあちゃんの影響が多少なりともあるのかな?と思ってしまう時がある。
私ぐらいの年齢になると、得るものより失うもののほうが多くなってくる。
死んでしまった両親やおばあちゃん、友人など、考えると辛いものだが、いつか自分も死ぬ訳だし、その時きっとまたみんなに逢えるのだからと思うようにしている。
だからそれまではもう少しこちらで元気で居させて下さいね、おばあちゃん。
(^_^)