生成AIを使い続けるとぼくたちはどうなるのか,教育関係者ならたぶん一度は考える話.自分の子どもについて,ならば保護者も考えるのかもしれない.
端的に述べるならば,当事者は過大評価と向き合う必要に駆られる,と考えている.その結果,過大に評価されることそのものに苦しむかはその人しだいだろうが,少なくとも広義的に向き合う,ということ.
多かれ少なかれ「できなかったことができる」ようになる.たとえば,プログラムのコードを書ける,きれいなパワーポイント資料を作れる,高度な考察ができる,など.いくつかは,「時間があればできるのだから,あくまで時短だ(i.e. 本質的にできなかったというわけではない)」という見方もできるのだが,「制限時間内にできなかったものが」と言えばわかりやすかろう.
もちろん,できなかったことができるようになれば,一般的にその人の評価は上がる.でもどうだろうか.それは等身大かと聞かれると違う.つまり,過大に評価されることになる.本人さえ良ければそれで良いかもしれないが,まじめに仕事をする人にはなかなか堪えられないものだとぼくは思っている.過小に評価されるのは不服だが,過大というのもそれはそれで困る(できないレベルの仕事が降ってくるし,謎に責任だけ増えることもしばしば).
そうはいっても”過大”ではなくちょっと良く評価される程度,というケースもあるかもしれない(漢字の意味を考えれば,”過”じゃないだろ的な話).その場合はさほど問題にならないのだろうか.英語でいうところのnuanceに相当するのだが,個人的な体験に基づけば,これはこれで厄介である.
※ニュアンスと言われると,言葉の雰囲気という意味合いで取る人が大半だろうが,おそらく和製的な解釈だと思っている.nuanceの直訳は”微妙な差異”である.
人と人がすれ違うように,ちょっとした評価の行き違いは積もり積もって大きなものへとなっていく.どこかで修正しないと,時間をかける分,それはひどく当事者を苦しめることになる.
そういう意味で,難しい時代が来てしまったな.
・・・そんなことを最近思った.
博士号を短縮で(世間一般の言葉で言うと飛び級で)取得して,そのまま大学教員になったとき,同僚から過大評価されてつらい思いをしたことを思い出した.彼らが悪いとも思わないし,「まぁお世辞込みでそういうことを言うでしょうね」とは当時から思っていた.でも,まだ何も為していない,何者にもなれていないにもかかわらず,すでに何者かになった人たちから持ち上げられるのはとても居心地が悪く感じた.
そういうザラザラとした感情は,生々しく,少し棘がある.
でも,人間活動をしていたな,といま振り返ると思う.