高幡不動駅前にある京王れーるランドに子どもを連れて行った.
人並みに楽しんだのだけど古傷が疼いた,そんなお話.
博士課程1年の夏,国際会議での発表で海外出張をした.還暦過ぎ,引退間近のボスに連れられて.
会場の大学のキャンパスはきれいで,大きな階段に腰掛けてサンドイッチを一緒に食べていた.
そのとき「きみさぁ,いま自分が身に付けなければいけない能力で,研究室でまだ習得できていないことってある?」と聞かれた.クソ生意気だったので「あー,特にないですね.実験は上手になったし,論文をまとめることもできるようになったし,発表も日本語だろうと英語だろうとできるし」とノンデリな返しをした.ボスは「あ~そうだよね.あと,今回の発表者のテーマを見てると,これからはもうちょっと材料寄りにいかないと厳しいだろうね」と言っていた.ボスはガチガチの理学系だったので,珍しく弱気なことを言うもんだな,とくらいにしか思わなかった.
帰国してしばらくたった8月のある日,ボスにたいそう叱られた.要は自分の殻を破れという発破をかけられたのだけど,(それができたらとうにやっとるわ)と思いつつ,解決策がなく,忸怩たる思いを抱えていた.数日後,教授部屋に呼び出され
「きみさ,論文いくつだしたんだっけ」
「筆頭2,共著1,国際会議1です」
「うちの卒業要件言ってみ」
「3です」
「じゃあもう学位とれんじゃん」
「は? そういう問題じゃないと思うのですが」
「たぶん,きみはぼくの手を離れて世界を見たほうが幸せになれると思う.というわけで学位とりなさい」
「は,はぁ(そうはいっても就職先どうするんだよ)」
その日はそれで終わった.
9月のある日,いつもどおり研究室に行くと,机の上に見慣れた学会誌が開いて置いてあり,そこにマーカーが引いてあった.
「きみさ,そこ受けたら受かると思う.出しなさい.」
とある大学(みんな知ってる)の研究室の助教公募だった.ちなみに材料系.
「ついに耄碌したか,このジジイは…」と減らず口を叩きながら,ヤケクソで書類を書いた.
…で何故か,書類も通り,面接に呼ばれ,翌日には内定した.
これをもって,博士課程を(2年短縮して)1年で出るという意味不明なイベントが始まった.それが10月31日.
(入職してから知ったが,いわゆるコネとか出来公募ではなく,ガチ公募だったらしい.おかげで学科会議ではD1は流石に若すぎないかと採用で意見が割れたとのこと)
翌日から,卒業に向けて死ぬ気で博士論文を書くことに.
※この時点で遅い.ふつうは半年くらいかけると思う.
筆頭3で出たいので,残り1本の論文も書きつつ,毎日16時間くらいは書いていた.
雨の日も雪の日も研究室に行き,年末も正月も行った.
予備審査は1月下旬だった(と思う).主査(ボス)に出した段階で
「学位に値しない」とバッサリ.
そうはいっても出すしかないので,「本審査までに必ずご納得いただけるような出来にします」と平謝りで,副査5名に対しても出しに行くことに.
うち1名は別キャンパスだったので,京王バスに乗って行ったのだが,道中急に悪寒がしてメールチェックをしたら
「今から見るに値しないD論が行くので,読まなくていいです」(ほぼママ)というメールが,To副査,Ccぼくで届いていた.
おそらく,人生で最も辛いCcだった.これを超える辛さはいまのところ,ない.
25歳にして京王バスで号泣しつつ,副査の先生の研究室に着きノック.
「なんかすごいメール来てたね.でも気にしなくていいですよ.」
という言葉を頂き,もう一度泣きそうになった.
予備審査は華麗に燃え,本審査も歴史的なサンドバッグ状態になりながら,最後までダウンせずに,なぜか学位が取れた.
2月の中頃だったと記憶している.
そんな日々を,れーるランドの展示用バスを見ただけで思い出してしまった.
京王バスは,よくない
※京王バスは悪くありません