山内マリコさんの小説のタイトルも、また内容も実に秀逸で、ぼくからは程遠い存在である主人公がよく似たような郊外の風景を共有していたことに快哉を覚えたのだが、さて、郊外に住む人たちは今何をしているのだろう。
ちょっと一息を吐いてもいいような、少しいい結果が出ると誰でも油断してしまう。妻によると、ついビールと焼き肉に手を出してしまう健康診断の結果が予想外によかった日の夜みたいに、人は多く家の外に出たみたいだ。
逆にぼくは片頭痛に襲われ1日を昏々と寝て過ごした。
こういう時に見る夢は苦しい。
酒池肉林、つきぬ欲望が果たされるような夢を見るなんてことはほとんどなく、20年以上前に強制的に連れて行かれ冴えない時間を追体験するような夢ばかりで、目が覚めた時に今自分が何歳なのか、何をするべきなのか忘れる。それくらい深く夢の中に連れて行かれる。
夢の中ではコロナもなく、両親も友人たちも若い。
今起こっている現実が信じられないのだろうか。時に、不謹慎かも知れないが書くこととNetflixを始めとする見ることに没頭できる休日を、ぼくは満喫しているつもりなのだが、一方で心はやはり疲弊していて、頭痛と言うかたちで訴えているのだろう。
緊急事態宣言が5月末まで続く。それは遠雷のようなもので、音だけかすかに聞こえぼくの周りは変わらず晴れている。幸いなことに罹患者も死者もなく、妻は在宅勤務は増えたが働き、ぼくも人が少なくなった職場で変わらず働いている。
感じるのは電車がすいていることと、出勤時間がずれているくらいで、帰り道に見る既に閉鎖して1カ月以上立つ百貨店の姿にも慣れ、毎日ガラス越しに見えるわに革の模様のハイヒールの位置が今日も動いてないことを確かめてからエレベーターに乗る。
自粛警察にも怯えず、オリンピックが延期になったことも忘れ歩いているが、背景ががらりと変わったことにまだ戸惑っているのかも知れない。
苦しい夢の中でも、また一見変わりのない毎日で願うのは、まさにタイトル通り誰かに迎えに来てもらうことなのだが、迎えは来ない。
そろそろ眠る時間が近づいてきた。また誰かが迎えに来てくれることを願いつつ、ぼくは眠る。