恩返しはこれから 単著を書くことになりました。 | 38度線の北側でのできごと

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 学生くらいから、作家になりたいと思っていた。日本史と並び、現代国語だけはまともな成績を取れていた。


 でも当時、書いて食う道は純文学か詩か。それくらいしかないと思っていた。けれど、植木等のリバイバルブームの中で、青島幸男の「わかっちゃいるけど…。シャボン玉のころ」(文春文庫)を読み、放送作家やエッセイストという道もあることを知った。

 

 高校の時、小田嶋隆を読み、コラムニストという道もあると知った。

 

 書き続けていればいいのか。漠然とそう思った。インプットが全然足りないので1日一冊を目標に、授業中に隠れて本を読んでいた。

 

 大学に入り、韓国留学中に書いた日記風のドタバタな記録を読んだ大学の恩師が、才能を見つけてくれた。大手広告代理店のコピーライターという過去を持つ恩師の絶賛に少し気をよくした。調子に乗った。

 

 大学の恩師の紹介でライターデビュー。留学ガイドと留学中にコラムを書いた。

 

 そこの会社と縁が切れ、04年に初めて北朝鮮に行った。結婚したし、北朝鮮にも行ったしまっとうに生きようと思ったら、別の大学時代の恩師からある学術団体を紹介された。ホームページでコラムを書き、原稿料を貰うようになった。

 

 Webじゃなくて、本を書きたいなと思ったら、大学の恩師が「いっしょに本を書かない?」と声をかけてくれた。角川書店から本が出た。とても厳しい編集者で共著者の何人かが無慈悲なリライトを食らったけど、ぼくは食らわなかった。人並みの文章力はあるのだな、と安心した。その後、角川の校閲室の厳しい校正を食らい真っ赤になったゲラはぼくの宝物だ。

 

 大学の恩師といっしょに仕事が出来たのもぼくの誇りだ。もうひとつ、ある映画のパンフレットでもぼくと恩師のコラムが並んだ。内容は少し首を傾げたくなる映画だったけれど、渋谷の映画館でトークライブもやったんだ。

 

 13年に訪朝した。頼まれて朝鮮新報という朝鮮総連の機関紙で書いたコラムが在日朝鮮人社会でヒットした。その後、日本人としては異例の1年間の連載。週刊金曜日でも書いた。デビュー作のタイトルが、辺見庸さんの顔に被った。公安とも初遭遇した。

 

 縁が繋がり、去年は1年間講演の旅が続いた。グリーン車に乗り、タクシーに乗ってその土地の一番のホテルに向かい、1時間半話して結構な額の講演料も頂く。年齢不相応な待遇。講演旅行って昔の文士みたいだな。ぼくは満足だったんだ。

 

でも大学の恩師は厳しかった。

「早く単著を書きなさい」。何度も言われた。

 

 そんなこと、簡単に言うけどさ。簡単じゃないんだよ。企画書を書いて、出版社に出してさ。当てのない執筆なんて、モチベーション上がらない。でも恩師はこんなことも言っていた。

 

「絶対見てくれている人はいるんだよ」。

 

 今年になって、神保町の書店でトークライブをやった。好き勝手に話して、どっかんどっかんウケた。テーマは北朝鮮。非常に敏感な内容なのに、日本人も在日朝鮮人も、専門知識のある人もない人も大笑いしていた。

 

 そこに編集者さんが来ていた。

 

「単行本を書きませんか」。

 

 そこから約2カ月。何度か食事をしながら打ち合わせ、企画書のやり取りをした。半信半疑、何だか1メートルくらいふわふわと浮かんでいるような2月3月だった。その間に転職もして、今も研修が続いている。そして先日、企画書が通ったというお知らせを貰った。ついに、単著を書くことになった。

 

 純文学ではないけれど、ついにぼくは自分の名前だけで本を書く。

 

 もう30年くらいになるのかな。何か続けてきたことというと、書くことと話すこと。北朝鮮(と広島カープと鉄道)。オタクと蔑まれても、スパイと疑われても、特に中高生の時は人間関係大変で、ほぼ絶縁しているけれど、それでも書いて話していたら、周りにいる人もがらっと変わってきた。

 

 妻とも韓国語の授業を通して知り合ったし、今周りにいる多くの人、特に在日コリアンの友人は書いて話して作って来た人間関係。彼らとの話がぼくの仕事の血肉になっている。

 

 まずは書かないといけないのだけれど、ひとつ目論んでいることがある。

 

 帯は恩師に書いてもらいたいんだ。絶対「ぼくはやだよぅ」というと思う。けれど、責任を取ってもらわねばならぬ。

 

 大学の恩師には「単著決まりましたよ」とメールをした。朗報!と喜んでくれた。恩返しはこれからだぜ。体調悪いとか言ってるけど、帯は書いてもらいます。