こんにちは。
ある日、夕食間近、介護用のエプロンが用意されていました。
そこには2F,3Fといったフロアと名前が書いてあります。
母は隣の人にエプロンを見せながら
「ほら、”3”と書いてあるだんべー」と話しかけていました。
ちょうどその時に到着した私はそれを見て
失うばかりではないなぁ、と思いました。
字はもう読めないって思いこんでいなかったか?とハッとしました。
「3」とわかること
他の人と交流すること
ある日、母に「お父ちゃんががんばれって言ってるよ」と話しかけました。
すると、「そんなことを言ったんかー?」と私に疑問を投げかけてきます。
さらに「先に死んじゃったのに、そんなことを言うかー」と言い、
お前は今頃何を言ってるんだ?と言わんばかりでした。
1年前に「お父ちゃんは天国だ」と言ったのを
たまたまかも
まぐれかも、と思った私でしたが、
今はもう
たまたまも
まぐれも
どうでもいいと思いました。
「死んじゃったのに、そんなことを言うかー」は
1年前よりおしゃべりに近づきました。
母は事故前におしゃべりしたように多くを語りません。
が、
周囲の様子を興味深げにじっと見ていたり、
気さくに話しかけてくる他の利用者さんと笑ったりしています。
「3」にしても
父のことにしても
様子をみていたり
交流するのも
今の母の世界の中で起きていることが表に出ていること。
母は今を生きている。
私が比べたがる過去に生きているわけじゃない。
そう考えると
以前はこうだった、
昔はこうした、
こういうことにとらわれ過ぎないほうがいいと思います。
知識や情報に縛られ過ぎないほうがいいと思います。
専門家の知見とは異なるのかもしれないし、
素人の印象でしかないけれど、
高齢者で
脳損傷で
脳機能低下は事実であっても
それでも補い合う力は働いているのではないかな、と思う場面は増えました。
高齢者だと○○。
認知症になると○○。
脳機能障害だと○○。
そういった一種の枠から入らずに
目の前のありのままで
おじゃまします!って入れてもらうようにしたらいいんだろうと思います。
「普通はさ・・」の「普通」って人によって違うことがあります。
母にしても
他の利用者さんにしても
今が「普通」なんだろうと思います。
それは私の「普通」とは大きく異なります。
例えば車いすの日常。
オムツの日常。
同様に嫌悪感の表し方、抵抗のしかた。
違うんだ、異なっているんだってところからスタートしたらいいのかな、と思います。
私の「普通」を枠にしてしまったら、
なんで?
どうして?ばかり並んでしまいそうです。
できない。
わからない。
感情がない。
そういう枠を自分から作らないで向かい合おうと思います。
ありがとう。
それでは またね。