ライジング・サンに行くことが決定して以来、毎日釜玉うどんを食しております。しかし、やっぱり飽きてしまうわけですね。毎日、炭水化物だけでは満足できないのです。人間、欲深いですから。


そこで、恐る恐る冷凍庫に保管されていたたこ焼き(賞味期限040410)を食したトコロ、これが大当たり。


下腹部がスマトラ沖地震。


ゴッ・・・ゴゴゴゴッ・・・・・・ゴゴゴゴゴゴゴゴッ。

私『ほあぁー!ほあぁぁああーーーーーー!!!!!!!!


という未曾有の大惨事だったわけです、今日は。


『だからなんだよ?』と言われても困るので、止めて下さいね。


サイテーでも禁、サイコーでも禁ですから。


それにしても、ライジング・サン出演アーチストを見ると、案外知らない人が多いことが判明。


インディーズとか知りませんよ。隠れてないで出てこいよ。リリーと猫ひろしで何するんだよ。


とりあえず、赤犬。関西圏に住んでいながら知らなかったー。でも・・・なに、これ・・・・楽しそぉーー!!!


この切ない想いを誰かに届けたいと思い、一緒に行く友人に電話すると、ソイツ、ナニ?あの、合コンっていうの!?見知らぬ紳士・淑女が邂逅を果たすという伝説のオカルティックなパーチーに参加してやがりました。


うおぉぉーーーーーーー!!!!!!!!!!


こっちは、毎日うどん(具無し)すすってるというのにっ!


もうアッタマきちゃうっ、踏んづけてやるんだから!!


とりあえず、明日知人がバーベキューするようなので御呼ばれしてきます。


にっ・・・にくっ、にくぅーーー♪

お気づきの方もおられると思いますが、アクセス解析入れてみました。


サイバーテロをする気も、IPを晒す気もございませんのでご安心を。


よくわかんないしね。何がどれで、どれが何なのか。


しかし、嫌な人がいればやめるので抗議して下さい。


罵って下さい。


蹴って下さい。


いや、やめないで・・・


ちなみに、ポータルサイトからくるのかな?っと思ってキーワード見てみたら、設置後、初めて来た人のキーワードは『胸毛』でした・・・


至急、言い訳がしたいのでコメントを下さい。


私の胸毛は産毛程度ですし、主に胸毛を扱ったブログでもありませんし、私は胸毛フェチでも胸毛願望もバンデラス信者でもないのです。


私を信じて下さい!


ツルペタが好きなんですっ!!


あっ、もちろん、語弊です。語弊ですよ?

今、テレビで『着信アリ』やっている。柴咲コウと堤真一が出演しているホラームービー。


それにしても、どうしてホラー映画ってあるんですかね?とゆーか、怖いんでしょうか?ホラー映画。


スプラッターとかネットのグロ画像の方がよっぽど怖いのですが。よっぽどタイガー&ホースなのですが、私。見た後、程よい安堵感があるからイイんですかね。大げさに言えば、九死に一生みたいな。竜頭みたいな。私はホラー映画をあまり見たことないですが、『富江』の頃の宝生舞がものすごく、カワイカタヨ。宝生舞や窪塚が出演しているのに、主演が山口紗弥加という映画『富江』。覚えましょう。原作マンガだけど。


カップルとか異性とのデートならわかります。男なんて女の子が怖がれば怖がる程、嬉しいんですからね。いや、Sとかじゃなくて。遊園地のお化け屋敷、夏の恒例肝試しなんてのは、世の男性に対する慈善事業なのです。ある種、素人専門の風俗。イメクラ。女の人は『この人、頼もしい・・・☆』なんて思ったら負けですから、気をつけて下さいね。男は皆、終わった後、主催している人とハイタッチしているのです。キャッとしてきたら、オォフッ☆となっているのです。ハッ☆としてグッー!!なのです。外道ですね。邪道ですね。冬木ですね。そういうヤツには肩パンでもしとけばもっと喜ぶのでやっちゃいやしょう。


そうそう、ホラー映画。ホラー映画って結構、水が出てきますよね。キーワードのように。ジャパニーズ・ホラーとか特にそう。雨でも井戸でも湖でも海でも風呂でもトイレでも、なにかと水がキーワードのようになっているような気がします。気のせいですかね?水のジメジメとした不快感、水の圧迫感、息苦しさ、音の聞き取りにくさ、視界の不安感 etc・・・とかが関係してるんじゃないかと勝手に思っているわけです。


以前、映画論みたいな講義とって、ゴダールとかジオドマークとかロッセリーニとか見させられて、解説されたけど意味わからなかった。シチュエーションの反復とか、その映画に出てくる数字の2は分身性で4は死、そのくせ10は見せ数を意味しているとか、あの映画の1は国家で2は個人を意味しているとか・・・・ホントかよ!?と。いや、映画自体は普通にワクワクしたんだけど。映像から意味を汲みとるって難しいですね。知識とゆーかバックグランドがあればもっと面白いだろうなっと思うと、なんとなく損をしてる気分になる。暇つぶしを100倍楽しくする方法は、やはり教養ですね。抱きつかれたいがためにホラー映画を見る、これもまた教養ですね。


*このテーマでは、気持ち悪い、また不快な表現が含まれる場合があるのでご注意ください。

今回はネカマ作戦記 を読んだこともあり、セックスについて書いてみようかな!と。こう思っております。セックスね・・・・好きですよね・・・・えぇ。男で『セックス?別に。』なんて言ってるヤツは漏れなく、ウソツキ、ゲイ、ED、あなたを狙っているのどれかに該当するに相違ありません。そして、上記サイトの主人公:古式はセックスに喰われた人間に間違いありません。男の卑屈な部分満載☆

つまり、男は性欲にある種縛られている。j3、要するに好きなんだけど。ただ、以前の記事で触れたように私の場合、これが好きな女となると話は別になってしまう。これは、セックスをネガティブにしか捉えられないから。よくセックスで愛がどーたらこーたらと言うヤツがいるが、愛がなければ勃起できないのか?それはウソにほかならない。よしんば、愛があったところで勃起できない。欲情したから勃起するのだ。好きとか愛とかは、二の次。なぜ、愛してるとかキレイな言葉に言いかえてセックスするんだ?だいたい愛なんてものは、自己犠牲の最上級じゃないのか?だから、愛とかぬかすヤツは氏ねっ!そいつのために三回ぐらい氏ねっ!!などと思ってしまう。また、単に優しくすることが愛なのか?それならば、セックスさせてもらったかわりに相撲レスラーよろしく『心』でも描けよ!ごっつぁん精神で、とか思う。

確かに、愛撫にはそういう感情的な部分が必要だし、相手を理解したい欲求というのも含まれている。好きな相手じゃなきゃクンニなんてしたかーないからね。逆に、好きな相手ならしたいけど。情報の海だから。ただ、ピストン運動にはほとんどそんなモノはない。射精する時なんて相手の人格なんて全く持って関係ない。相手のこといつまでも気にしてたら中折れしますよ、ホント。だから、最終的には自慰と代わり映えしなんですよね、子作りしない限り。その後の精神的・身体的変化も一緒だし。いや、自慰よりも悪い。私はセックスの根底にあるのは、快楽、征服欲、支配欲、所有欲のような気がしてならないのだ。捕虜に対する拷問のなかには、男でも女でもレイプがあるしね。以前、嫉妬からヤった時は、上述したような『俺のモンだ感情』と、どっかから舞い降りた相手をぶっ壊したくなるような破壊衝動が自分の裡にあったことを自覚してゲンナリした。モノ扱いかよ、気持ちワリー。

こんな私は、オーケンに言わせればオナニストのようである。彼の著書『グミ・チョコ・・』によれば、オナニストは、女性に対して『聖なる清らかな人とオカズ又はマンコ』という背反した2つのイメージが同時に存在しているらしい(私としては、もう1つ『会話がおもしろくない』も含んで欲しい)。そのため、好きな人とはなるべくやりたくない。聖なる清らかな人を、欲望丸出しの未確認飛行物体で汚すわけにはいかないのだっ!つまり、未だに私は精神DTなわけである。セックスは、肉体のコミュニケーションなどとも言うが、言葉よりも不完全だ。言葉よりも相互理解はしにくいし、快楽の方がどうしたって強い。しかし、人間、人肌恋しい時もあるし、好きなら触れたいとも思うだろう。ただ、それなら、抱きしめてキスした方が、裸で抱き合った方がよっぽど相手を愛しんでいるように感じるのである。

まあ、んなこと言っても3ヶ月ぐらいたったらするんだけどね。性欲に押されて。その時は、だいたい快楽の追及ということで『おもしろければ、楽しければイイじゃない』にシフト・チェンジ。ムーディーよりも、ゲラゲラ言いながらするセクササイズに面舵いっぱい。結局、私にとってセックスとは女性の手を借りた、自慰に近似した行為であり、コミュニケーションとして会話よりも劣り、所有感の確認作業であり、抱き合うことよりも相手を愛しんでいないわけで、面白さ・楽しさに逃げるしかないのである。だから、感情的なセックスなんてしたかーない。悲しいから。だから、最中とか終わった後に好きだとか嬉しいとかそっち系の言葉をされると猛烈に悲しくなる。なんでしてんだろ?みたいな。何やってんだろ?おれ、みたいな。もっと頑張れよとか、勉強しよーかって言われた方がマシだ、ネタにもなるから。そして、次第にそーゆう罪悪感とゆーか板ばさみに思考がストップして、どうでも良くなって投げやりになっていくのである。終わった後、それまではキャーキャー言いながら頭の中で悶々と一人苦悩していたのが、徐々にタバコ咥えながら相手が寝るまで一人で深夜放送見だすんだ、見たくもねーのに。

あぁー気持ち悪いこと書いてんな。これもフカシロクン同様、子供の頃、親のセックス見たからか?それとも、オナニーしすぎなのか?ゲロゲ~ロ。

yabai、いやヤバイ、やばいのです。


駒がなくなってしまった・・・・


お~い美津子さん、ワシのコマァ、知らんかぇ?


え?そんなの知らない?そんな、無いはずがなqあwせdrftgyふじこlp・・・ふがふが

と、このぐらいヤバイ状態なワケです。頭の中でピアノ・サーカスが四六時中鳴り響いています。

危険ですね、非常に危険です。誰か逮捕して下さい。警察に突き出して下さい。

のあー!!このままじゃ、どっぷりニートになっちまうよ。

若しくは、漫喫でオナテッシュ捨てる仕事しか残ってないんじゃないか?

ん、ん?どうなんだ?えぇ、どうなんだい?

いー、とにかく秋採用見なきゃ。リクナビ、毎ナビ、日経ナビ。

昨日、責任がなんだと言っといて、この体たらく。

『ライジング・サン』行くために日雇いやろうと思ってたんだが・・・・どうする?

どうする、おれ!?

ぎゃ、ぎゃふん。

この前、『ロッキーホラーショー』を見た。SF怪奇映画の二本立て。

そのなかの『夢を見ちゃダメ。夢になるの。』というのが心に残って、なぜか光クラブ-事件で有名な山崎晃嗣を思い出した。彼は、東大卒のヤミ金会社:社長。その好奇な人生のせいか小説の題材にもいくつかなっている。例えば、三島由紀夫の『青の時代』とか。そして、彼による光クラブ事件は戦後犯罪(アプレ犯罪)のはしりなんて云われている。

彼は徹底した合理主義者であり、性悪説論者であり、『人生は劇場だ』なんて誰もが思いながら口に出しちゃいけないことを言ってしまう頭脳明晰な人生劇場の演者なのである。彼のことを自己中なアマちゃんエリートなんて評す人もいるのだが、私は浪人時代、大そう彼のような考え方に傾倒した(今はそこまで極端ではないが・・・)。それは、確かに人間をバカにしてはいるのだが、彼にはウソを感じないし、責任能力の高い人間のように勝手に感じたからだ。また、私は彼の考え方が、とてもアメリカ的であり、今後日本でも主流になる考え方であるとも思える。

また、その頃から感情論とか、全体主義とか、ナショナリズムとかそういったモノが嫌いであった。例えば、フェミニスト、動物愛護団体、拉致被害者の会、反日運動、etc・・・

もうゲンナリだ。

フェミニストは、男女平等を掲げ声高に。

動物愛護団体は、動物愛護精神に則り捕鯨禁止を求める。

拉致被害者の会は、経済制裁を求め、泣き喚く。

反日運動では、ここは私達の島だと居座る。

別に主張自体が悪いとは思わない。性差を考えた男女平等は必要であるし、動物も好きだし、拉致を指示した金何某はなんて悪党なのだろうと思う。しかし、どいつもこいつも『正義は我にあり』といった感じが気持ち悪いのである。そして、その裏でどれほどの人が迷惑を被っているのだろうといつも感じる。感情論は、被害者意識にまみれ、悪の枢軸を作り、ここぞとばかりに正義の鉄槌でもって一方的に人を裁くことが多いのだ。何の責任も負わずに。

風俗で働く女性を男に媚を売ってと罵り、北朝鮮の子供にお米を届けに行く日本人の家には、抗議の手紙や電話をし、捕鯨を生業としている人の生活権を脅かし、反日運動では戦争体験のない若者がファッキン・ジャペ~ン。この前の福地山線事故でもマスコミでは延々と批判報道、その果ては何の関係もない車掌に缶を投げつける輩などなどなどなど。感情とは、良くも悪くも内向きであるべきである。だから、カテゴライズして批判するのは良くないが、私には上述したような人達は、正義を振りかざしてさぞや気持ちの良いオナニーに見せつけているようにしか、そして、それを相手にも強要しているようにしか見えない時がよくあるのである。

もう露出狂なのね、フフッ。いや、そうじゃない。言いたいのは、人間まとまるとろくなことをしないと言うことと、何かをする(または求める)ということは何かに対して責任を負うということだ。人間まとまると、極端な、一面的な考え方に囚われ、相手を否定し、そしてそれを相手にも強要しやすい。だから、常々『個人』であれと私は思うのである。自分のできることしてればいーじゃないさ。

昨日借りてきた、バグダット・カフェ。見たことあった。最悪。ワスレテタヨ、ワタシ!!


まぁ、でもコーリング・ユーはやっぱりいいですね。大豆食品ばかり食べてる日常からの逃避に成功し、久しぶりに精神の安定を手に入れました。 ここのとこ、毎日、納豆か五目大豆か冷奴。 もう、いいや。


そして、今日、借りてたビデオとCDを返そうと思ってCD焼いてたら、予想所要時間530分。


ひでぶ!?


コピーコントロール?かと思ったらそうでもない。一人部屋で激昂した私は、『あっそう、そういうことする。YOUそうことやっちゃう!?』とCDとの鈴鹿8耐に参戦したものの2時間でコース・アウト。マジごめんとばかりにパソコン強制終了。ポチッとな。


しかし、このまま返却なんて『あぁやだやだ、あたしゃヤダよっ!!』と思い、2年振りにMD購入。そして、無事返却し、替わりに二ノ宮知子の『グリーン』を借りて帰宅。


そういえば、マンガといえばこの前初めてパソコンで立ち読みした。ココ (e-manga)で。代紋を8時間の立ち読みの末、読破した私としては見逃すわけにはいかないっ!!(予備校に行く途中ブック・オフへ→立ち読み→予備校が終わっていたため直帰!!)。


見ていただければわかるが、ウェブということで海外のマンガ家の人もいるし、コマや画を動かしたり音を入れたりしてウェブの特性を活かした新しい表現を模索しているという印象を受ける。だから、まだまだ発展途上という感じ。私としては、やっぱり紙がイイ。変える必要なんてあるのだろうか。電子ペーパーで携帯に便利になればそれでいい気がする。だいたい、音とか画の動きとか単にアニメーションに近づいていくだけだと思うのだが・・・・まあわかってはいるんでしょうけど。情報が多いと読者に対して一方的なものになって『本の良さ』が消えてしまうじゃないか。ぶーぶー。


ただ、電子ペーパーから電子ブックができたら、今のCDショップのような本屋ができるのだろうか。例えば、専用の端末で立ち読みができたりとか。終には、インストールのみで本が一冊もない本屋。なんか気持ち悪いな、便利にはなるけど。


本屋では、というか出版社とか印刷会社もその辺に危機を感じたのか、最近小説にしても復刻させて装丁に凝ってきている。デザインで楽しませて、手元に残したい本を作ろうというトコロだろうか。読んだことはないが、有名な所だと、『Good Luck』。


Alex Rovira, Fernando Trias De Bes, Fernando Trias De Bes
Good Luck: Creating the Conditions for Success in Life and Business

この画像はまだ復刻前だが、現在はグリーンを主色としたカバー。しかも、カバーを裏返すとこちらもカバー。リッ、リバーシブル!!まぁ、なんか付け焼刃な感じが・・・・


ただ、日本は他の国に比べて、デザイン力はあるもののそれがGDPにはあまり反映されてないとか。だから、若手デザイナーの方とかは自分を表現する場所が広がるからイイのかも。第一、本に限らず、家、クルマ、携帯、家電、etc。もっと日本でもデザインを利用してもイイと思う。だいたい、遊び心が足りねーんだっ!そりゃ、安全性、利便性、効率性、価格なんかは、先進国の中でも日本はイイとこいくと思うけどさっ。例えば、ケータイなんかは、現在、デザイン性の高さによって値崩れを防いる。ちなみに、GDP比でデザイン市場が一番高い国はイギリス。まあ、私には関係ないか。


*日本の21世紀型家電メーカー(?):REAL FLEET

私はどうも不器用な人とか好きだ。苦労しているクセに笑えるヤツとかも大好きである。今も、テレビでほっしゃんが出ているのを見ている。今回は、少し感情的に書いてみる。


そして、そんな私にとってナンとも悲しいニュースが入ってきた。


快楽亭ブラック脱会である。これだけならまだいい。


しかし、それについての家元(立川談志)のコメント がものすごく胸に来た。特に最後の部分。


『助けたってまたやるはづだし、やらないと己の人生、過去が無意味になるし・・・。』


さすが談志だ。


そして、快楽亭ブラック、落語の世界を地でいく芸人。ただ、会見でなに不幸そうなカオしてんだと言いたい。芸人なら、いつも笑ってなきゃ駄目だ。それが、芸人の業ってもんじゃないのか。これは、彼への批判ではない。励ましだ。


私は良く結果ださなきゃ駄目だと、自分に言い聞かせるように友人に言う。そして、就職活動とかでも他人に認められたいとか言うヤツがいるが、私の場合、認めさせますと言う。それは、結局は結果を残さなければその人がどんなに熱意があっても、どんなに努力しても、どんなにそれを私が感じても、社会には認められないからだ。これは、まぎれもない事実だ。だから、努力は、絶対実らなければならない。


そして、何かを諦め他の道を選んだ友人、自分の夢を追っている友人、絶対成功してもらいたいと強く願う。自分で選んだ道を正しいものにしてもらいたい。そのためには、清濁併せ呑んでほしい。


人はそれが現実的がないというかもしれない。


人はそんなヤクザな、安定しない商売というかもしれない。


人はそんな夢のない職業というかもしれない。


しかし、キミの意志を挫こうとするものなんて汚物と一緒に便所に流してしまえばイイ。誰が何を言おうと、自分の人生なんて自分でしか責任がとれないのだ。逆に、彼にとってもらうことなどできないのだ。


現実的とは何だ?


安定がどこにある?


夢は誰が決める?


現実的とは、いかに建設的であるかということだ。人の流入がますます激しくなるこの時代、安定なんて、どこにもない。あるのは、『比較的』な安定だけだ。夢はその人にしか決められない。そして、決めてもらう必要もない。世の中、覚悟と自覚さえあればなんとかなると思っている私は、勝手によくこんな風に思う。


ああー、こんな夜はコートニーでも聞こう。酒を呑もう。書を捨てよ、酒を呑めっ!!

いや~昨日はスゴイ雷雨。外出たら、びしょ濡れ。ピカドン、ピカドン。ピカドンに興奮した私は気づいたら走っていました。私も何分キカイダーなトコロがありましてショートしてしまったようですね。大学四年間で初めて停電も経験し、大変有意義でございました。今回は、「団地ともお」を読んだせいもありまして、私の幼少期について。


私は末っ子ということもあり甘やかされて育てられた、ようである。覚えちゃいないが幼稚園の頃など、スーパー連れてけば勝手に店のお菓子を破って食いだすし、見よう見真似で車を運転しようとしてサイドブレーキを下げて田んぼにダイブをするし、先生が質問すればキャーキャー言いながら手を上げ「わかりません!!」と堂々と宣言し親は大変恥をかいたようである。その話を聞かされた頃は、すでに私はスネオなため自分の裡に潜むそんなジャイアンを信じていなかった。しかし、以前その頃のホームビデオを親戚の大勢の前で上映され、嫌がおうにも認めざるを得なかった。


ブラウン管には、後ろから友人を川にケリ飛ばしてワーワー一人嬉しがっている私。

それを見た母上が激昂している様。

自分中心天動説(美味しんぼ参照)。

徹底したエゴイズム。

ジャイアンというより範馬勇次郎。

真実だ。


なんて悪なんだろう・・・・さらには、記念碑の漢字が読めなかったのか、少々考えた後、無理矢理読んでいる。なんてアホなのだろう・・・・高校生が警察を指して、「サツがよぉ~」とか「この間ポリがさぁ~」とか言っちゃうぐらいアホである。認めたくはないが、相当酷いクソガキでございました。


そして、小学校。一番思い出深いのは、2年生の頃の「男軍団」である。たけし軍団ではない。簡単に言えば、絶対主義国家。いや、トップにプラモデル屋の息子が君臨していたから、プラモデルはその頃通貨とも言えるし、子供版資本主義国家か。まあ、いいや。さらに側近には軍部が、つまりケンカの強いやつがいた。そして、その下にはラオウに媚び諂うウサのようなやつらがいてバロックワークスの如きナンバーが付いていた・・・・そして、下のヤツは、自分のナンバーを上げるためにケンカでも上納でも頑張るのである・・・・この時からだ、私がこの国は病んでいると強烈に感じたのはっ!!その後は、お金をちらつかせて身の回りのことをさせるという飛び級で「大人」になるヤツまで出てきてヒドイものであった。学級崩壊。こんなんが、授業なんてまともに聞くはずがない。その頃の私はというと、基本的に一人遊びに耽っていたのでコウモリ野郎。学校ではゲームボーイとマンガがあれば幸せであり、放課後はカードダスに勤しんだり近所の少年科学館でミニ四駆の試走を行っていて、学級崩壊には一枚噛んでいたもののそれほど友人と遊んだ記憶がない。しかも、その頃は水泳、エレクトーン、ボーイスカウトと習い事まで多忙だったのである。


なぜこれほどまで覚えているかと言うと、担任の先生が原因である。岡本先生。結構なお年の男の先生。ある日、クラスに男だけを集め、唐突に頭を下げながら言い出したのである。それは、土下座に近いものだった。


「男軍団に入れてください!!」


ショックだった。これほど、子供に諂った大人が今までいただろうか。少なくとも私は今までに見たことがない。しかも、「お前はやればできるんだから」と気にかけてもらったりしただけに、ショックでしょうがなかった。いい大人の男が土下座して・・・しかもクソガキに・・・なんなんだ!?怒れよ!!!と、なってしまったのである。子供が彼らの正義を振りかざしていくら反抗しようと、子供にとって大人とは絶対的存在である。腕力、知識、お金、どれをとってもそうだ。それが崩れたことに大変私は動揺してしまったわけなのである。そして、大人も人間であることに気づかされる1つのきっかけにもなり、なにかとても悲しかった。授業中遊んでたけどね、ははっ。随分勝手なもんだ。

橋本、亡くなってしまいましたね。ミーハーではありますが、中学時代プロレス見ていた者として悲しいです。私と同い年ぐらいのプロレスファンは、橋本なんて「ど真ん中」なんじゃないだろうか。猪木世代ではないからね。橋本のケリやDDTに魅せられたヤツが、深夜の新日本プロレス見て、そのまま闘魂列伝・徹夜コース。次の日、学校で友人にプロレス技かけて、嫌われて、泣きながら本屋でゴングとか読んでたじゃないだろうか。んで、そっから外出るときも、NWOのTシャツとか着ちゃって立派なプロレスファンになっていったんだろうな。多分。まあ、今回はプロレスについて少し書いてみようと思う。


かくゆう私は、学校の廊下で友人に通り魔的にアキレス腱固めをかけられてからプロレスを見るようになった。それまでは、「プロレス?はぁ!?八百長だろアレは。格闘技じゃない。」なんて鼻にもかけてなかったが、実際痛かったのだからしょうがない。だいたい、長州のリキラリアットを見たら、誰でも興奮してしまう。特に、私のようなマンガ好きは。相手が頭からリングに叩きつけられてるのなんてマンガでしか見たことねぇーよ!!なんてなってしまうわけだ。たとえ、それがワザとだとしても。ライガーの掌手、武藤のドラゴンスクリューやフランケンシュタイナー、そして小橋の肉体(新日じゃないけど)。どれも当時の私にとってはリアルに感じられ、それからプロレスの見方もただの八百長から美学のようなものを見出せるようになった。


アメリカではプロレスはショーという位置づけが強い。元々、アメリカ人はサービス精神が強いしね。他の格闘技を見ても試合前にあれだけ強気にベラベラ喋るのは、アメリカ人ぐらいではないだろうか。あれは、その人の性格と言うより客を煽るパフォーマンスとした方がしっくりくる。試合のストーリーだけでなく、選手のキャラクター作りや人間ドラマまで見る人の立場に立ったショービジネスがなされている。ん~すごい。日本でも蝶野のNWOや最近では小川のハッスルなど、エンターテイメントの要素を出しているがアメリカと比べるとまだまだだろう。少し前に棚橋が女に刺されたけど、あれはエンターテイメントではないからね。リアルだから。


しかし、エンターテイメント性だけをとって日本のプロレスが劣っているというのは間違いである。日本のプロレスの良さは、試合結果にこだわって格闘技の要素が強いことだ。つまり、魅せつつも耐える格闘技なのだ。一般的には、いかに相手を倒すことが主流だが、いつまで立っていられるかを競うのがプロレスなのである。だから、単に八百長で済ましてしまう人には少々違和感がある。「耐える」という部分では、日本のプロレスは本物の格闘技だからだ。そして、耐えるというのは日本の文化と言える。戦争でも「欲しがりません、勝つまでは」なんてスローガンがあるぐらいだからね。


ただ、マス・メディアがますます介入を深めることによって、日本でもプロレスのエンターテインメント化はさらに進むだろう。それがなんとも嫌なのである。まず、独自性がない。同じモノは2つもいらないのである。エンターテイメント性が強いのが好きなら、アメリカのプロレスを見ればイイからね。日本は、昔から新しいものを取り入れ「加工」して独自の文化を形成してきた国ではないのか!?そして、これはプロレスに限ったことではない。簡単に言えば、わかりやすいもの、つまりアメリカ的なものが好まれているというのが嫌いなのである。これはコミュニケーションにおいてもいえる。言葉を至上のコミュニケーションツールとして事実だけをそのまま受け入れ、なぜそうなったかを推察できない。穿ってみることができない。さらには、妄想できない。そんな日本人が増えている気がする。言葉なんて一つの手段に過ぎないのにね。言葉にすれば、安っぽいなんてことは往々にしてある。特に、感情を言葉に置き換えるなんて本当はナンセンス極まりないのに。


あー話がズレてしまったな。ただ、私は日本のプロレスとは、肉体のコミュニケーション、さらには肉体の会話とも言えると感じているのだ。相手の技を防ぐのではなく堂々と受け、相手にダメージを与える。相手の話を聞いて、相手に話しかける。まさに、コミュニケーション。相互理解だ。とにかく、橋本は私のプロレス史において1つの足跡を残したのは確かである。橋本のケリは1トンとかね。まあ、確実にウソだけど。耐えて最後には勝つという「日本のプロレス」を体現してくれたリアル・プロレスラー橋本。40歳なんて、まだまだ早すぎるだろ。合掌。


ソフト・オン・デマンド
あゝ! 一軒家プロレス