消えてゆく姿が心の底からわかったとき、一瞬で幸せになるのです
『体験の捉え方』
“二つの箱の話を知っていますか?
父親が死ぬ直前にひとり息子に二つの箱を渡しました。 一つは黒い箱、もう一つは白い箱でした。
彼の人生で辛く苦しいときに白い箱を、そして最も幸せな時に黒い箱を開けるように息子に言いました。
息子は洪水によってすべてを失くしてしまったときに、白い箱を開けました。
そこには 「いつか過ぎる」 と書いてありました。
その後、すべてを手に入れたときに彼は黒い箱を開けました。
そこには 「そしてこれもいつかは過ぎる」 と書いてありました。
永遠に続くものはありません。”
私たちが自らの人生で体験する最高に幸せな出来事、また苦しみや困難のすべては、肉体人間として生まれたことによって味わえる特別な体験であります。
それらは本来の自分とつながるための学びや気づきであるものがほとんどです。
でも、どんな幸せも苦しみもいずれはすべて過ぎ去っていきます。
私たちはあらゆる人生体験を通して、本来の自分の姿を思いだそうとしているのです。
真実とは何か? 真の自己とは?
永遠に消えることのないものとは何か?
私たちはそれらの問いを持ちながら、肉体という衣を羽織って旅に来ているわけです。
そのプロセスがはっきりと分からなくても、確実に真の自己に近づいていると感じます。
私はある時、自分の言動行為が自分であると思い込んでいた時があります。
自分がやること、言うこと、思うことが自分であると思っていました。
だからこそ良い言動行為をしなくてはならないと思っていました。
そうでなければ愛される資格がないと思っていました。
でもその思いに反し、自分の頭の中ではあらゆる批判、文句、好き嫌いが行き交い、それらが繰り返されていました。
そのような声がどうしようもなく大きくなっていった時に、自分が自分でいることに窮屈を感じました。
なぜ自分はそんな窮屈な思いをしているのだろう?
自分の頭で鳴り響いている自他を責めるような言葉の数々ってどこから来るのだろう?と思った時、それらすべては潜在意識に溜まった過去の思い、神様と離れてしまったことによって現われ、消えてゆく姿であることに気づいたのです。
自分はそんな消えてゆく姿の自分と同一化していて、それが自分であると思い込んでいました。
人間の生命というものは長い歴史をたどっています。
時に否定的に見えるような現象も現われてきます。
その連続のように見える人もいるでしょう。
でもそれは決して自分が悪いからではないのです。
本来はいつでも自由であり、いつでも完璧であるのです。
でも、そうであると同時に、手放していかなければならない過去の消えてゆく姿があります。
それを理解し、体験していくと、自分の望まない姿が現われた時でも、素直に手放していけるようになるのです。
そして祈りの中に、感謝を込めて投げ入れていけるようになります。
真の自己には善悪もありません。 幸も不幸もありません。
ですから本来赦しも必要ないのです。
神様には赦しが必要でないように、私たちの本質も全くその通りだと思うのです。
赦していかなければならない自己というのは、我々が摑んで手放さない誤った想念、肉体に限定され固執した想念であるのです。
それがあらゆる意識の壁を作っていくのです。
私は自分の頭の中の騒音がうるさくなってきたことに気づくと、少し離れた場所から自分のことを観察することがあります。
これは本来の自分であるのか、それとも消えてゆく姿が現われているのか・・・・・それを問いながら自分の姿を客観的に見るようにしています。
すると本心と消えてゆく姿の区別がついてくるようになります。
祈りや印は自分の頭の中の騒音を静めてくれます。
自分の頭の中から何も聞こえない時間が一番自分にとって心地よく、自然であり、解放された時間になります。
あるがままに受け入れ、どんな自分の姿をも心から愛し赦すことが出来るのです。
すると自分に与えられた人生体験、そしてそれを導いてくださっている守護の神霊への感謝の気持ちだけが湧いてきます。
この世の苦しみ、この世の痛み、この世の失敗、この世の成功はすべて消えてゆくものです。
消えてゆかないのは、私たちの本質である、神そのもの、神の御心のみであるのです。
それは誰にも侵されることはないのです。・・・・・・・・・・・
西園寺里香さん
感想・・・・人間には本来、不幸というものは無いのですが、あるとしたのならそれは、本来の自分から離れた違う自分を摑んでいる時なのです。
恨んでいる自分、妬み嫉妬し、感情的になり、そんな自分が嫌で嫌でたまらない、しかしそれは過去世の自分が消えるために幻のように現われているだけであり、ほんとうの自分はそれを客観的に観ているのです。
肉体の自分をもう一人の自分が離れたところから観ている。
そして 「これはほんとうの自分じゃない」 とわかっている。
肉体の自分を客観視出来たとき、ステージが上がるそうです。(5次元、多次元)
そしてほんとうの幸せをつかむことが出来るのです。
「我即神也」西園寺昌美(著)を読むと私、人間は神性そのもの、光そのもの、神そのものであったことを思い出させてくれます。
そうなんです!
私たちは、忘れていただけだったのです😄