私のブログを読んでくださっている人は、神様であるとか、霊であるとか宇宙であるとか、神秘的なことを書いているので、グッドムーンという奴は、きっと不思議な霊能力を持ったあやしいヤツなんだろう? と思っている人も少なからずおられると思います(笑)
しかし、残念ながら私は霊(神)もみえないし、幽界も霊界も神界という世界も垣間見たこともないのです。
人の心もみえないしわからない(推測は出来ますが)ごく普通の人間です。
ただ、目にはみえないけれど、神様はおられると思っていますし、守護霊守護神さまに守られていると信じています。
その信じる度合いがみなさんよりもほんのちょっと強いだけだと思います。
そして、霊能力に対して興味もまったくありませんし、持ちたいとも思ってもみないのです。
そういう力があっては、そのことに振り回されてしんどいと思うからです。
普通でいいのです(笑)
だがしかし、目に見えない力(神の存在)があることを信じるのはいいのですが、霊能力を持った人を信じるのは大変危険だと思います。
人の心が読めたところで何になるでしょう?
当て物を当てるのがうまくて、万馬券を教えてもらって金持ちになったところで何になるでしょう?
医者が治せない病気を、幽界(低い世界、迷いの世界)の邪な力を使った人に一時期に治してもらったところで何になるでしょう?
病気になって、医者にも見放され、藁(わら)をもすがる人は
「近くにいい霊能者がいるよ、どんな難病も治してくれるよ」
と聞くと、普段そのようなあやしげなものは大嫌い信じないという人でも
「ダメ元で試してみるか」 と頼って、治ったような症状になると(根本的には治っていない)今度は信じ過ぎて(過信)
「あの人は素晴らしい人だ、凄い力を持っている」 と絶賛しマインドコントロールされることになるのです。
病気を治すのは、ほんとうの魂の親である守護霊守護神が望んだことでない限り、許可を
もらったことでない限りやってはいけないことなのです。
病気になるのは、守護霊守護神がその人の魂の成長を慮って、計画してなっている場合があるからです。
病気になることによって、今までの生き方を反省し、心を入れ替えることもあります。
暴飲暴食をやめて、体を大切にするようになることもあります。
それまで冷酷、冷徹だった人が、迷惑を掛けた家族に対して感謝の気持ちを持つようになり人が違ったように愛深い温厚な人に生まれ変わることもあります。
病気そのものが悪いものではないのです。
病気になるには必ず原因があるのです、意味があるのです。
それを神様(守護霊)の意図を邪魔をして、勝手なことをする・・・・
とんでもないことです。
本当に病気を治す霊能者とは、守護霊守護神と対話の出来る霊覚者でなければならないのです。
お釈迦さまやキリストさまのような聖者でなければ許されないことなのです。(聖者であっても病気を治すことはめったにしません)
それは、お釈迦さまやキリストさまは、神そのものだからです。
人間の生命は神様に委ねられているからです。
ですから、神と直接つながった霊覚者でなければ肉体人間の私たちは間違った方向へ導かれてしまうのです。
今は、スピリチュアルブームで神秘的なもの、不思議な力を持った人に魅かれ、興味を持つ人が多いのです。
しかし危険なものが非常に多い
危険なものだらけです。
人格が伴った霊能者であるのか?
高慢でないか?
お金への執着が強くないか?
色欲が強くないか?
感情的ではないか?
嫌な雰囲気を漂わせていないか?
目がうつろでないか?
「自分は神様から力を戴いた」 などと言っていないか?
観察力でおかしなものは見極めることが出来ます。
自分は騙されないと過信してはいけません。
頼ってはいけません。
それよりも何よりも怪しいものには近づかないことです。
そんなものに興味を持つということは現実逃避をしているのです。
そのためには霊能とはどういうものなのか?を知っておいてよいと思います。
そしてそのようなものに興味を持っている人、持ちそうな人にアドバイスをしてあげてください。
『霊能はどういう状態になると現われるか』
それでは一体霊能というのは、どういう状態になると現われてくるのか、ということについて説明しましょう。
人間はいつも私が説いておりますように、肉体の他に幽体とか霊体とか神体とかいう体をもっているのであります。
そして、人間の想念波動が、常にどの体の中に一番多くの時間を巡っているかということによって、その人の人格が定まり、運命が定まってくるのであります。
その人の想念波動が常に神体の中を巡っている人は、高い人格者であり、神人合一の境地のいわゆる霊覚者にもなり得るのです。
そこで私は、いつでも守護霊さん守護神さんに感謝を捧げつつ、世界平和の祈りをしていなさい、と教えているのです。
守護霊さんは霊界にいて、肉体界にまでその光の波動を伸ばしてきているのであり、守護神さんは神界にいて、光明波動を肉体人間の波動に合わせてきているのであります。
そうして肉体人間の業想念を常に常に浄めているのであります。
そこで、浄められ守られている肉体側では、いつでもそうした守護の神霊の加護に感謝の想いを向けていれば、その人の想念はいつも霊界神界に往っていて、肉体界に、神界霊界の光明波動を導き入れやすくなってくるわけです。
ですから、その人の人格は自然と高くなってくるし、その人の運命もよくなってくるのです。
霊能者といわれる人は、自己が意識するとかしないとにかかわらず、幽界の波動や霊界(霊界でも低いところ)の波動を受けやすい肉体に生まれついているのであります。
そして、自己の霊能に気づきはじめますと、今度は、その想念そのものも、幽界や霊界にむかうことが多くなり、本格的に霊能者となってくるわけなのです。
そうした霊能があると気づいた場合には、いち早く、真の秀れた宗教者のところへ行って、自己の想念波動が、常に神霊の世界のみに集中されてゆくような指導を受けることが必要なのです。
一般の人の見えぬ世界が見えたり、運命の予見ができたり、病気を治すことができたりすることだけで、自分の人格が立派になったように思ったり、神様が自分にのりうつったように思って、高慢になったりする霊能者は、いつかは自分をも人をも傷つけ損ねてしまうのです。
一人の人間が生きているということだけでも神様の力が働いていることは事実なのですが、そういう意味でなく、神様が特別に自分に力を与えている、特別に神様の愛を得ている、ということを、単に霊能力があるということだけで思ってしまうことは実に危険なことなのです。
霊能力のあるということが、即、神様の力ということではありません。
霊能力があるということは、その人の肉体波動が幽質に近いので、幽界や霊界(の低いところ)の波動を受けやすい、ということなのであります。
幽界や霊界の波動の中には、人間各自の過去世の意識層(想念波動)や未来に起こってくる運命の波動もあるのであります。
そうした種々の波動を、自己のもつ幽質的機関がキャッチすることのできるのが霊能力となるのです。
そうした人々にはその背後には肉体界と幽界或いは霊界との交流を計ることを役目としている霊魂(人)や、単にそうしたことに興味を持っている霊魂(人)がおりまして、その交流を助けているのであります。
そうした背後の霊人の住んでいる世界の高低によって、その霊能者の人格の高さが定まってくるのであります。
これを逆にいえば、霊能者の人格の高低によって、その背後に働く霊人の高低が定まってくる、ともいえるのです。
ですから、霊能者が、その霊能力を誇りに思うだけでなく、常に人格の練磨に心掛け、常に神霊界へ自己の想念波動を向けているようにすれば、霊覚者にまでなり得ることもできるのです。
ところが巷間の霊能者と称する人には、人格的には問題のあるような人が多くて、高慢そのものであったり、怒りっぽかったり、心が狭かったり、物質欲や権力欲が旺盛であったり、女色に溺れやすかったり、というような、普通人よりも低い行為をみせる人が意外な程多いのです。
「神は沈黙していない」 五井昌久 白光出版