いちいち置かれた立場で不平不満があったら駄目です。
置かれた立場がいかに悪かろうと誠心誠意尽くしていれば、その人は次の段階で素晴らしいものになる。 例えば結婚して夫が悪い、妻が悪いとします。
夫が悪かろうと妻が悪かろうと、それは前世の因縁で、自分が前の世でやってきたことが返ってきて、ここで現われて消えてゆく姿なんです。
夫に一つ殴られたら、ああこれで一つ因縁が消えたんだな、有難うございますと思うのが本当なんですよ。
妻に少し逆ねじ食らわされたら、ああこれで一つ消えたんだと思う。
みんな原因結果なんだから、因縁因果というのは原因結果ということです。
原因結果ということはこの世だけではなくて、前の世前の世の原因が現われて結果になって、今現われている。
何べんも何べんも生まれ変わった前の世の想いが現われて結果として現われて消えてゆく。
それを 「私なんにもしないのに」 というけど、そうじゃない。
なんにも私しているんだ(笑) それは前の世であるかも知れない、今生でも相当やっている、それが現われている。
それをされたことばっかり考える。 何かされた、自分の不為のことばかりを考える。 ああ自分はなんて情けない者だろう、自分ほど不幸せな者はいない、と思うような人は、その心が不幸せ。
自分は不幸せなんだと思う心が不幸ですよ。 はたからみて、どんな不幸せな環境にあっても歓びに輝いていれば、その人はその人柄で、ああなんて立派な人だろう、まるで天使のようだと、こうなりますよ。
そういう心が天国の心なんです。 だから生きながら天国地獄が決まっているんですよ。
この肉体にいながらも天国地獄は決まっている。 同じ畳の上に住んでいても地獄に住んでいる人と、天国に住んでいる人がいます。
この天国地獄の心がそのまま霊界に持っていかれるんです。 今天国の心にいて死ねばその人が天国です。
今地獄の心で死ねばその人は地獄です。
そして地獄に落ちることを救ってくれるのは唯一、神さま!って感謝しちゃって、神さまの中に入り込んじゃうことです。
自分じゃこの悶々たる思いをどうにもできない、不平不満をどうにもできない。
どうしても不幸が起る、どうしても不満が起る、どうしても妬みが起る、どうしても怒りが起る、そういう想いをすべて神さまに委せきった時にその人は天国なんです。
『光明の生活者』 五井昌久講和集3