五井先生の言葉
1.ある人が先生に質問した。「私は学生時代、父が死んで、人にはいえないほどの苦労をしましたが、その苦労があったからこそ、今の自分があるのだと思います。あの苦労がなかったら、私はつまらないサラリーマンになったでしょうね」
「そうですよ、その苦労がなかったら、今日のあなたとは全く別のあなただったでしょう。苦労したことがよかったのですよ。苦労したような人でなければ、人の上に立てませんね」と先生はおっしゃった。
「昔、山中鹿之助が、月に向って、われに七難八苦を与えたまえ、と祈りましたが……」と私が口をはさむと、「そう祈ることは間違いだよ。本当に山中鹿之助がそういったかどうか、それはわからないよ。わざわざ苦難を来たらせたまえ、と祈ることは間違っている」
「本当にいったかどうかわかりませんが、その気魄というか、根性というのは見習うべきでしょうね」「それは見習っていい。苦労することを恐れず、進んで苦労に取組んでゆくという気持ちになれば、苦難は来ませんよ。苦労しないですみますよ。
けれどね、なんでもかんでも苦労しなければいけない、ということではないのです。わざわざ苦しんで生命エネルギーを消耗させることは愚かです。苦労するもしないも、みな背後の守護霊さんがその魂に必要と認めてのことなのです。
だから、苦労がなければないで、有難うございます、と感謝し、苦労があればあるで、自分を鍛えるために神さまが与えて下さったものと、感謝して受ける、そういう素直な気持ちになることが必要なんだよ」
2.「人間には恐怖心というものがありますね。これを取り去ろうと努力するのですが、考え方によっては、この肉体界に生きて、肉体を維持している以上、この恐怖心が全然なくなってしまってはまずいのではないでしょうか」とおききしたら、
「そうだね、全然なければ人の心の動きがわからないだろうし、同情心というのがわからないね。幕末の騒乱期に何度も死の剣の下をくぐりぬけた勝海舟や山岡鉄舟でさえ、恐ろしいと思うといっているんだからね。しかし恐怖心があっても、それをすぐ転換できたのだ。
だから恐怖心があるからダメだということでなく、いかに早く、短かい時間で想いを転換できるか、ということが必要なのです。その修練の連続じゃないかな」と先生はお答えになった。
感想・・・・1.まるで煤の付いたダイヤモンドが苦労に苦労をして光輝き、素晴らしい人になる場合もあれば卑屈になって屈折し嫌な人になってしまう場合があります。
前者は守護霊の成功作であり、後者は失敗作に見えますが、それは短期の肉体界の短い一生を観ているだけであり、後何度も輪廻転生を繰り返させ落ちるところまで落とさせて真理(人間即神也)に目覚めさせようとしているかもしれないのです。
そして何度か生まれ変わりを経験しているうちに後者のほうが立派な人格者になっているかもしれません。
だから五井先生は「今のその人を観て人を批判、非難、評価をしてはいけないよ」「宇宙は悠長であり、守護霊は長いスパンで人間を成長させようとされているんだ」とおっしゃっておられます。私たちは人を観てすぐに「この人は良い人」「悪い人」とジャッジしようとします。それがどれだけ愚かで傲慢であるかがわかります。
2.私が住む大阪府茨木市は今回かなりの地震被害を受けました。(我が家はたいした被害もなく)
その後テレビやネットなどで「かなりの確率で余震が来ます」と聞いて不安になる人と、情報を外部からのネガティブ情報をあえて入れようとしない人とは恐怖心が全然違うと思うのです。
それから「余震が酷かったらどうなるのだろう?自分は死ぬのだろうか?」と保身にばかり意識を向けているのは大切な生命エネルギーを消耗させているように思うのです。
つまり環境ではなく精神ですね。
恐怖心が頭をよぎるのは仕方がないと思います。その切り替えの早さが大切です。
恐怖を思い続ける人が多ければ現実に引き寄せてしまう。もう私たちはこの辺で想いが現実を創っている真理に気づかねばなりません。私たちは創造主(神)なのですから・・・・・・。