初めに感想
「思いが現実を創る」・・・このことはわかっているようでわかっていないのです。
それよりも仕事だ、お金だ、行動することだ、人間関係だ、コミュニケーションだ、・・・もちろんどれも大切です。
しかし実行している最中の想いはどうでしょうか?
地に足が着いていないまま、気が静まっていないまま、気持ち(モチベーション)意識が低いままで上手く行くでしょうか?
そしてなによりも守護霊さん、守護神さんのご加護が無いまま、過去性の想念行為が汚れたままで、肉体界のことが整うでしょうか?
この世(3次元)もあの世(4次元、多次元)もエネルギー、波動の世界、想念の世界です。
想念が浄まっていないと絶対に整わないのです。これは宇宙法則です。
宗教とは宇宙を示す教えなのです。
~運命の転換は想念の転換で、そして想念の転換は祈りで~
人間には誰にでも、守護神、守護霊がついているのですが、そうした守護の神霊と、分霊の肉体人間との光の交流を業想念の黒雲が妨げているので、業想念波動のままの運命が転回されてゆくので、不幸災難がそこに現われてくるのです。
そこで私達の世界平和の祈りによる救世の大光明波動によって、守護の神霊と肉体側との一体化がなされてゆきますと、その人々の運命法則として、払わねばならぬ業想念波動(借財)が浄められてゆき、病気や貧乏や不幸災難の運命が根本的に改められてゆくのであります。
それにしても、守護の神霊との一体化がなされるまでは、多少ともに過去世の習慣の想念波動によってできた運命軌道の修正されてゆく姿として、病気や不幸という消えてゆく姿が現われることもあるのです。
とにかく宗教信仰というのは、神を求める心であり、神との一体化、本心の開発のためのものであるので、そうした根本的な道に乗りさえすれば、その人の過去世からの業想念による運命は、全き修正を見るのであります。真実の宗教信仰とはそうしたものであるのです。
この世的に言って、病気するにも貧乏になるにも不幸災難に遭うのにも、それ相応の原因があるのです。
それは各人の想念のあり方とその行為によってすべてなされているのでありまして、不幸災難というのも、その人の想念行為の波動によって、遁れもし、遭遇することにもなるのです。
それは先ほども申しましたように、不幸災難を受けるのは、過去世からの因縁によるのですが、定まった不幸災難を遁れるというのは、過去世からの因縁波動を超えなければなりません。
その人の現在の想念行為が、過去世からの業因縁によってできた不幸災難を受けるべき波動の圏内を離れていなければなりません。
そうしたことはどうしたらできるか、と申しますと、それは、その人の想念波動を、過去世から習慣づけられていた、災難や不幸を受けるような想念波動と異なるものにしてしまわねばなりません。
異なるものにするのに一番易しい方法は、守護の神霊の加護による祈り一念の生活に切り替えてしまうことなのです。
三界の業想念の世界に住んでいる自分の想念を、神界に住まわせてしまえばよいわけです。
その最も容易で、しかも同時に他の人のため、世界人類のためにもプラスになるのが、世界平和の祈りなのであります。
世界平和の祈りは、そのまま神界、霊界にその人を高めあげる祈りだからなのです。
すべては想念の習慣によるのですから、うまずたゆまず、世界平和の祈りの中に自己の想念を向ける習慣をつけていますと、いつの間にか病気や、不幸災難の渦の中を経めぐっていた想念波動が、神界霊界の明るい浄らかな安心立命したひびきの世界に同化してゆきまして、不幸災難の波動の中から脱け出すことができてくるのであります。
祈り一念の生活こそ何にもまして大事なのであります。
運命の転換には、どうしても想念を転換させることが必要なのです。
暗い想念、不幸な想い、病気や貧乏な想い、そうした想念を、世界平和の祈りによって、神界霊界の光明波動に切り替えてしまうことによって、病気や貧乏や不幸災難を遁れると同時に、本心の開発も自然になされてゆくのであります。
そこで私は、病気や不幸や悪い想念を消えてゆく姿とし、消えてゆく姿で世界平和の祈りだ、と言っているのです。
(五井昌久 「これからの文明文化 ——新時代をひらく科学と宗教」)