人間のほとんどの苦しみの原点とは何でしょうか?
それは過去に把われ、過去に縛られ、過去に振り回されていることだと思うです。
もし記憶がなくなって、それも嫌なこと辛かったこと思い出したくないこと、マイナスのことだけを忘れて、
大切なことや必要なことプラスのことだけを覚えていることが出来たとしたらどんなにか幸せでしょう♪
「そんなことできるわけがないじゃないか!」
「できないことを書くなよ!」
とおっしゃるかもしれません。
しかし都合よく忘れることが出来なくても
私たちが過去に意識を向けずにそこに振り返らずに過去の出来事に力を与えなければ、過去は、力なくただ過ぎ去ってしまうはずなのです。
「そんなことはわかっている だけど過去は潜在意識の中から消えないではないか!」
「次から次へと頭の中は走馬灯のように過去からのマイナス想念が駆け巡っているではないか!」
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私たちは 忘れることは出来ないと思い込んでいる
消すことなんて出来るはずがないと思っている
それはなぜか?
それは自己を否定しているからです。
自己限定をしているからです。
あまりにも自分を非力な者だと信じているからです。
それが大きなとんでもない間違えをしてしまっているのです。
自分は、過去なんかに振り回されないんだ
なぜならば、自分は崇高で気高い存在なんだ
どんなマイナスとも共鳴しない強い存在なんだ
パーフェクト(完全・完璧)なんだ
なぜならば、我即神也だからだ!
自分が何者であるかを知って、そしてはじめていろんな有限なマイナスのエネルギーに勝てるようになるのです。
過去を掴んでしまうマイナスの想念エネルギーは肉体人間がつくったものだから有限です、一方神である自分が秘めているエネルギーは無限なのです。
だから
自分が何者であるかがわかれば簡単に勝負はついてしまうのです。
反対に、自分を知らなければ、偉大さがわからなければ
どんな相手にたいしてもオドオドしてしまうのです。
戦う前から負けてしまっているのです。
西園寺昌美さんのご著書で ズバリ 「我即神也」 白光出版 があります。
それを読まれたらいいと思うのです。
過去には何の力もない
大切なことをお話しします。
皆様方はまだ過去を掴んでいます。
過去というものはなかなか忘れられないのです。
過去の苦しいこと、悲しいこと、辛いこと、悔しいこと、恨みの言葉、皆、いろいろな過去を掴んでいます。
しかし過去の出来事が、今に向って飛び込んでくることはないのです。
過去の出来事というのは、もう過ぎ去ったことなのです。
悔しかったこと、苦しかったこと、いじめられたこと、失敗したこと、悲しかったこと、その過去の出来事は、今生きているこの自分の中に飛び込んできて、自分の人生をストップさせることはないのです。
過去には何の力もないのです。
ここが大事です。
過去のあらゆる苦しみ、悲しみ、傷み、悩み。
それらは物であれ、想念であれ、出来事であれ、何の力もないのです。
それを思い出す自分が、その過去の物や想念や出来事に力を与えてしまって、それで自分で取り込んで、その取り込んだ過去の想念を思い返して自分を不幸にしているのです。
だからこそ、五井先生は消えてゆく姿を説かれたのです。
消えてゆく姿とはそのことなのです。
過去のあらゆる出来事に自分の想いが行かなかったら、そこには何の力も禍いもない。
過去には、今の自分の現実や自分の未来にストップをかけ、ダメにする力など何一つないのです。
何一つないのです。
過去、どんなに相手が自分を苦しめたとしても、その過去の出来事には何の力もないのです。
では、なぜ自分が苦しむのでしょうか。
それは我即神也でない自分が、過去に味わった苦しみや恨み、憎しみ、嫉妬心、そして競争相手に負けた悔しさ・・・・・・といった自分の想いに把われ、その過去の出来事を改めて掴んで、それに力を与えてしまっているのです。
過去一切 ━ それがどんなに酷くて凄くて辛いものでも、今の自分に災いする力など何もないのです、それらには。 何一つないのです。
ですから過去を離した人は、即、未来を創っていくことが出来るのです。
しかし、我即神也がわからなければ、また過去を掴んでしまいます。
この人類の苦しみや悲しみや闘争や、宗教対立も人権差別も殺し合いも、すべて過去でしょう。
みんなが過去を掴まなかったら、あるのは未来だけです。
多くの人類には、それがまだわからない。
でも、皆様はもうわかっておられるはずです。
それだけの力があるのです。
大きな地球のカルマを防ぐことが出来るのです。
なぜ出来るのですか?
それは皆様が我即神也を掴んでいるからです。
「我即神也」 西園寺昌美 白光出版 「果因説」 西園寺昌美 白光出版