流石は特別史跡。名古屋城。金鯱は微かに見えた。

信長の安土城天守閣から始まる、築城技術の集大成とのこと。しかし耐震性の問題で立入禁止だった。

中央が清正石。デカすぎでしょ。

この石垣自体は別の大名が担当だったが、巨石過ぎてこの石だけは清正が(の指揮で)運んだらしい。天守閣も清正だったかな。

その清正像。

聳え立つ西南隅櫓。石落としの張り出しが良く見える。築城時は、まだまだ西に脅威があった。

ブラタモリで何度も観た、担当大名を示す刻印。

どの大名様なのかは知らない。

埋門跡。非常時には、殿様はこの下の門から石垣を潜り抜け脱出、木曽路へと逃げる手筈になっていたとのこと。何で木曽路?

勤王尾藩、とある。
調べたら、勤王は初代藩主徳川義直からの藩訓らしいが、何故だ。

石垣の修復工事。一旦石垣を全て解体して、今積み直しをしている。最初の築城から約80年後にも一度崩落したらしく、何か地形地質的な問題がある箇所なのか。

二の丸に建っていた那古野城跡。元々今川氏がこの辺りに城を造ったのが始まりとの事。

維新の後、陸軍所管から皇室の離宮になって、その後市に下賜されたから「恩賜元離宮」とある。

銅鯱。元は江戸城にあったモノが名古屋城正門に移り、正門は空襲で焼けたがこちらは何とか残ったと。

空襲の業火で溶けた金属塊。発掘調査で大量に見つかったらしい。

こちらは、空襲前に倉庫に避難させて無事だった本丸御殿の障壁画。色々見応えがある。