祝福家庭必読書2 | 楚と鶴

楚と鶴

「楚」とは北斜面(日が当たらない場所)で咲く棘のある花のことです。
文鮮明先生のすばらしいみ言葉を掲載していきます。

    
     楚と鶴
 


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祝 福
一九七〇年三月二十二日
韓国前本部教会 『文鮮明先生み言選集第三十巻』より
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◆神様は100点以上を願う父

 そのような面から見るとき、神様がアダムの代わりに、あるいはイエス様の代わりに召される立場に自分が立っているか新しく来られる主に代わり得る立場に私が立っていると認めることができるかということが問題になるのです。それゆえ、皆さんは過去から現在に至るまで、自らの生活を批判してみなければなりません。
 私たちの中にも、自分なりに考える人が多くいます。「教会で常礼としてするのが祝福だ。私自身もこのような条件が成立しているから、そして教会に入って何年たったから、それに該当し得る資格者になっただろう」と考えるでしょうが、そのように考えてはならないのです。
 この日は、神様が六千年間も願われた一日なのです。この一日を迎えることによって、失った息子を捜すようになるのであり、失った娘を捜すようになるのです。これらを通して神様の愛を連結することのできる一致点がつくられるのであり、ここから神様がみ旨を繰り広げることのできる横的な根拠地がつくられるのです。このように、神様の内心に一致することのできる心をもち、祝福の一日を迎えるために準備する息子、娘が今までいなかったのです。
 私たちの姿を見れば、顔には耳、目、口、鼻がすべて備わっていて、体には四肢五体が備わっています。これらすべてのものが合わさって神様の前に現れるようになるとき、神様は私たちのどの部分を愛されますか。神様は、ある一部分だけを中心として愛されるのではありません。すべてを愛することのできる息子、娘になることを願われるのです。神様が願われる基準は、五十点ではありません。神様は六十点、七十点でもない、百点以上を願うのです。
 その百点以上の基準は、アダム・エバが堕落した基準ではありません。神様の前に、すべてを蕩減復帰してさしあげる基準の立場なのです。言い換えれば、エデンの園で堕落する前のアダム・エバ以上の価値を追求する父の心だというのです。
 もし、このような条件を成立させることができなければ、今日までの神様の威信は地に落ちるようになるのです。神様は、サタンがアダム・エバを侵犯して、その栄光の一日を蹂躙したことを凌駕する立場で、新しい祝福を受けられる夫婦をもたなければなりません。サタンが神様の息子、娘の所に訪ねていって、再び取ることのできる立場に立てば、神様は威信を探して立てることができなくなるのです。


◆天が認める立場から出発する重み

 それゆえ私たちは、何らかの自分の事情をもってを受けようとしてはなりません。祝福の位置は、天と談判した結果に立つ立場、神様が認めざるを得ない立場から出発しなければなりません。これが堕落した人間として取るべき態度です。そうできない時には、敗北者としてその場に残るようになるのです。その場で一度間違うようになれば、億千万年の子孫が引っ掛かって入っていくようになるのであり、先祖まで引っ掛かって入っていくようになるのです
 では、イエス様はこの地上に来られ、何ゆえに失敗したのでしょうか。イエス様が来られて三十余年間、御自身が語るべきみ言をすべて語ることができずに失敗したのではありません。また、公生涯路程で弟子たちと、あるいは親戚たちとしなければならないことができなくて失敗したのでもありません。失敗のきっかけは、ただイエス様が祝福の場に行くことができなかったためなのです。
 十字架を背負われた直接的なきっかけも、イスラエル民族が裏切り、ユダヤ教徒が反対したからというよりは、ヨセフ家庭でそういう祝福の一日をもつことができなかったところにあります。そのような一日をもっていたなら、イエス様は十字架上で亡くならなかったはずです。
 今まで人類が苦痛の中で呻吟している原因は、堕落して祝福の場に立てなかった先祖をもったからです。その悲運の歴史があったがゆえに、今まで長らく子孫たちは呻吟しているのです。この世の人類が、天の前に一様に願うのは、正に祝福の一日です。これはあとにも先にもない歴史的な事実です。

◆祝福家庭の地上生活での責任
 人は誰でも祝福を受けなければなりません。そして、祝福を受けた夫婦は、祝福を受けたその日から果たすべき責任があります。その責任は、夫婦が合わさって家庭を成して暮らすのではなく、二人を合わせて民族と国家を形成しなければならないのです。
 祝福を受けた人が十人ならば、十人の家庭を合わせて新しい世界観をもち、一つの新しい氏族を編成しなければなりません。新しい国家を形成するには、まず新しい氏族を編成しなければならないのです。その氏族は、分裂した氏族ではなく、一つに統一された氏族でなければなりません。
 祝福を受けた十人の目的は、互いに同じでなければなりません。これらの家庭は、サタン世界で探し立てた少数の家庭なので、いつもサタン世界の攻勢を受け得る立場にあります。それゆえ、いつも一つになって団結し、その環境を圧倒し、入ってくる外部の力を凌駕できる自体内の結束をしなければなりません。その力を凌駕するには、自体内の完全な統一が成されなければなりません。
 このように一つになった姿となるならば、いくら外的にはサタンの侵犯を受けても、十分に勝ち抜くことができるのです。このように結集された実体を備えるところから、サタン世界の侵犯を受けない新しい氏族が形成されるのです。そういう団結された氏族を通して民族が形成され、その団結された民族を通して新しい国家が形成されるはずです。
 もし私たちが、この地上で祝福を受けた家庭として行くべき道を行くことができなかったときには、霊界に行って生きることができません。皆さんは、祝福を受けた夫婦として天上に行って幸福に暮らすようになると思っていますが、そのようになってはいません。祝福を通して私たちは、万世の存在世界で栄光の実体の中心にならなければなりません。それが創造本来の姿勢です。
 世界には数多くの国があります。サタン世界でこのような国家がサタンの陣営になっているので、天に代わってこれらをすべて勝利の決定圏内に探し立てなければなりません。それで神様の前に、栄光と称揚を捧げることができる立場に立たなければなりません。
 私たちが、このような本然の位置に立つことができない立場で霊界に行けば、自分が安息できる場所を得ることはできません。それゆえ自分の夫、あるいは妻だけでなく子供たちまでも率いて、世界を復帰するために協助できるようにしなければなりません。そのような立場に立った家庭が正に祝福家庭です。
 私たちが知るべきことは、霊界と肉界は全く違うということです。心で考えられる世界をそのまま具体化させた世の中が霊界です。み旨に対して忠誠を尽くすと心の底に大切にしまっておくだけでなく、必ず相対的な実体を同伴しなければなりません。それで心と体が一つとなり、必ず地上で良い結果をもたらさなければならないのです。
 私たちが地上で備えるべきことをみな備えられず、サタンに心を奪われた立場で霊界に行くようになれば、実体の行動をどのように展開することができますか。この地上で責任を果たせないときには、自分の子孫を代わりに立てなければなりません。

 自分を救うことができるメシヤのような立場にその子孫を立てて、彼らを助け、彼らの事情を見ながら協助してあげなければなりません。

 彼らをして、自分が生きている時にできなかった責任分野を成し遂げることができるように協助しなければなりません。これが再臨復活の現象です。
 もし私たちが、霊界に行って再臨復活しなければならない立場に置かれるならば、そのような立場は幸福であるはずがありません。自らの責任を全うしない人は、責任を全うした栄光の座に行くことができません。霊界は無限な功績の世界であるがゆえに、自らの責任を遂行することができなければ、責任を遂行するために数千、数万年の時間が延長され得るのです。したがって、今日私たちが「生きているこの時が、どれほど貴重な時間であるのか?」ということを知らなければなりません。

◆絶対的にために生きる祝福家庭

 イエス様が探し立てようとする一人の相対、言い換えれば、祝福の対象者はイエス様御自身にだけ属した人ではなく、世界に代わり得る人です。彼は世界に代わり得る中心存在なので、その中心の立場を世界から任命されるまでこの道を行かなければなりません。それで誰でも、祝福家庭を成したとしてもこの道を行かなければならないのです。
 祝福家庭は、すべての願いを国家と世界のための家庭という信念に置かなければなりません。国家と世界を形成し得る、神様の代わりの者であるという責任感をもち、また、そのような心をもって一切の行動をそこに結束させなければなりません。
 私たちが制限された環境で仕事をしたとしても、誰の命令を受けて仕事をするかが重要です。神様の命令を受け、あるいは世界と国家の召命を受けて仕事をしているという信念をもたなければなりません。世界に代わる仕事、国家に代わる仕事を制限された環境でしているのです。個人を中心とした仕事も同じです。それは命令を受けた背後が違うことによって、その仕事の結果も違ってきます。
 世界を代表して仕事をすることも、私一個人がする仕事もとりわけ差がないようですが、世界の命令を受けてから仕事をするというときは、世界に結束されるのです。同様に、国家の命令を受けて仕事をするというとき、環境は制約されても、これは国家の前に寄与するのです。
 したがって、今日の個人の生活、あるいは祝福家庭の生活は、自分たち夫婦のためにだけ生きるという観念を超越しなさいというのです。

 そうでなければ、この地上に蕩減条件を立てて、世界を復帰するのに、功臣という基準を残すことができないのです。私たちがそのような基準を残すことができないならば、霊界に行って自分の行く道を管理できません。もし、そのような立場で霊界に行った人がいるならば、その人に対しては厳格に処理するしかありません。
 それゆえ、私たちが祝福を受けて行かなければならないその道は、自分たち夫婦のためだけの道ではないのです。夫婦のために生きる前に氏族のために生きることによって、夫婦として安息できる立場が繰り広げられるのです。氏族は国家のためになるべきであり、国家は世界のためになってこそ、安息できる場がつくられるのです。
 このような観点から、祝福というものは個人のためのものではないというのです。私たち各自は「祝福は全体を代表することだ」という信念さえもてばいいのです。そのような立場で、互いが一つになって家庭を形成するようになるとき、初めてその家庭は、世界へ向かうことができる家庭になるのです。そのような祝福家庭が一家庭しかないときは、その一家庭がその責任を絶対的に負わなければなりません。
 そのように進んでいく過程で一家庭一家庭が残っていくようになれば、そのような信念のもとで歩んでいる家庭が多ければ多いほど、復帰歴史は進展するのです。しかし、同じ道を歩む家庭がいくら多くても、互いに頼ってばかりではいけません。各自が自らの自主性をもちなさいというのです。そのような家庭が国家のための家庭であり、世界のための家庭です。そのような自覚のもとで歩む家庭ならば、その家庭で生まれた子孫たちも国家のために、世界のために生きる人になるはずです。
 そのようになれば、歴史的な夫と妻になり、子孫は神様の復帰摂理の途上で世界を復帰し得る、必要な氏族になるはずです。そのような氏族的な因縁を備えることのできる夫婦になるならば、彼らは新しい時代の先祖の立場につくはずです。こういう途方もない責任と使命を与えられる因縁を決定するために出席する席が、祝福の席なのです。

◆祝福家庭が行くべき道
 祝福を受けるにおいて、常習的な観念でその過程を経る者になってはいけません。その過程を経ただけでは、いけないというのです。祝福につづられた事情や因縁が、どれほどあきれ返るほどにもつれているのかを知らなければなりません。それを知るようになれば、世界が左右されるのです。その一つの目的に向けて、方向を合わせていくようになれば、世界がその方向に向いてくるのです。
 祝福を受けた夫婦は、自分たちの思うとおりに生きることはできません。一つの公約のために、あるいはその国の公約のために生きなければなりません。自分の相対の優劣が問題ではなく、行くべき目的性が問題なのです。
 それゆえ自分を愛する前にまず国家を愛し世界を愛さなければなりません。これが祝福を受けた家庭として行くべき道です。夫も妻もすべて同じです。夫や妻に自分を愛する代わりに国を愛し、世界を愛し、天を愛しなさいと言うことができなければなりません。
 もしアダム・エバが堕落しなければ、彼らが愛する愛は天地に代わった愛となるのであり、世界に代わる愛、国家に代わる愛、民族に代わる愛となるのです。ところが、すべてが堕落によって始まったのです。
 祝福家庭は本来、人間始祖が堕落して神様に対してできなかった愛を探さなければならない運命にあり、世界と国に対して愛することができなかったことを探すべき運命にあります。このためには国家を越え、世界を越え、天を愛さなければなりません。
 それゆえ私たちは、天を愛したという公認を受けて世界を愛さなければならず、世界を愛したという公認を受けて国家を愛さなければならず、国を愛したという公認を受けて氏族を愛さなければならず、氏族を愛したという公認を受けて家庭を愛さなければなりません。このように、家庭まで愛したという公認を天の前に認められたのちに初めて、夫婦間で愛さなければなりません。
 自分の家庭より氏族をより愛さなければならず、国をより愛さなければならず、世界をより愛さなければなりません。その次に、自らの親戚と祝福を受けた同僚を愛さなければならないのです。このようにして互いに連結された一つの家庭があるならば、その家庭はいくら多くの人々の中にあるといっても、見れば目立つのです。男性と女性が一つになって結合したその家庭では、国家を愛する形、世界を愛する形、天を愛する形が現れるのです。
 それゆえ、祝福家庭は今まで世の中の夫婦たちが慣習的に使ってきた「自分だけを愛してほしい」というような言葉を使ってはなりません。妻である人は、そういう夫にならないように精誠を尽くさなければならず、夫である人もそういう妻にならないように精誠を尽くさなければなりません。お互いが力と力を合わせて助けてあげ、導いてあげなければなりません。その道を行くにおいて心を痛めないように、互いが勇気を与え互いが導くとともに、導きを受けなければならない責任を負っているのが夫婦であり、家庭であるというのです。
 祝福を受けた家庭は、祝福を受けたその日から、各自二重的な十字架を背負っていかなければなりません。男性は自らの世界だけでなく、女性の世界までも責任を負うべきであり、女性もまた自らの世界だけでなく、男性の世界までも責任を負うべきです。このように二人が責任を負っていく道において、サタンが讒訴できる内容を残してはなりません。これが祝福を受けた人々の責任です

◆祝福家庭の生活
 そのように行くことができる私自身になっているかという問題、そのようにできる内容を私自身が備えているかという問題について、ここに「蕩減条件」という言葉が出てきたのです。
 蕩減条件を立てるには、まず信仰の三子女が絶対に必要です。アダムとエバが堕落することによって、その八人家族が堕落したために、その八人家族を代表できる基準を越えなければ行くことができないのです。それを備えずに「民族のためだ、国家のためだ、世界のためだ」という言葉は、単なる形式にすぎないのです。このような出発起点で初めて、「この基準は絶対的だ」と言えるのです。その絶対的な基準を解決していかなければならない運命の道にあるのが、祝福の立場です。
 ここに数多くの家庭の中で中心になれる家庭があるならば、その家庭は、多くの家庭の中で天が最も愛する家庭になるはずです。反面、互いがみ旨を忘却して自分たちだけで愛しながら生きるならば、天の前に恥を感じなければなりません。
 み旨を前にして、自分たちだけで因縁を結び、自分たちだけの幸福を探して家庭を切り盛りする立場に立てば、発展しません。したがって、家庭に良いことがあれば、それは国と共に、世界と共に、天と共に関係を結ばなければならないのです。その家庭の喜びは国の誇りであり、世界の誇りであり、天の誇りでなければなりません。
 私たちが息子、娘を生むようになれば、そのような立派な息子、娘として、神様の前に捧げられなければなりません。私自身は、たとえそのような立場に行くことができなくとも、私が天を慰労し得る立場を成してさしあげる日が必ず来るはずだという信仰をもち、精誠を尽くすようになるとき、その息子、娘たちが世界と国の前に必要な存在として現れるようになるのです。しかし、自分たちを中心として、自らの幸福を模索する家庭は、天のみ旨を利用しようということにしかなりません
 私たちは、相対を求めるところにおいて熾烈な戦闘をしなければなりません。私が彼を引っ張っていくか、彼が私を引っ張っていくかして、いずれにせよ二人の中から一人でもまず行かなければなりません。その二人のうち一人は前に行き、一人はついていく立場に立ってこそ、必ずこの道を行くことができるのです。
 では、ここで誰が主体になり、誰が相対になりますか。信仰生活において、主体になる人が自分の妻ならば、たとえ妻だとしても仕えていかなければなりません。妻の前に絶対服従しなければならないのです。男性だとしても、大声を張り上げてはいけません。
 女性も同じです。男性が主体になって責任を負っているときには、男性に対して外的な問題をもってあれこれ言ってはいけないのです。問題は、み旨に対してどれほど忠誠を尽くすことができるかということです。互いにみ旨が自らの生命の中心になれるかどうか、それが問題だというのです。
 それゆえ、個人が願う相対的基準ではないといって落胆してはいけません。彼がみ旨を思う心が自分より秀でていれば、「彼を通して世界を探していこう」と言わなければなりません。そのようなことができる男性、そのようなことができる女性を探して立ち上がらなければなりません。外的な形態を備えた学士や博士より、純真で純朴な農村出身者と暮らすほうが、より幸福になることもあるのです。自分を前面に押し出して大声で騒ぐ人よりも、黙々と引かれる所に行き、どのような場所においても永遠にその場を守ることができるそのような人が、天の前により必要なのです。

◆祝福は二度あり得ない
 
私たちがみ旨を前にして歩んでいくにおいて、自分が欲張れば、逆に行くのです。そこには自らの欲を介入することはできません。もし祝福を受けてから、互いに自らの利益のために欲張って生きる夫婦がいれば、その夫婦はアダム・エバが堕落した姿を再現することになるのです。堕落とは、欲で始まったのです。
 祝福は、あくまでも神様を中心として愛の因縁を結んでいかなければなりません。「私はこういう人がいい」と言って、自分だけを前面に押し出す人には、絶対に天が同調しないはずです。自分たち同士が気に入った人は、絶対に祝福をしてくれません。祝福を受けるためには、信仰の正規の過程をたどらなければなりません。
 本来愛は天から始まるべきなのに、人間が堕落することによって、サタンから始まりました。堕落はサタンから、エバから、横的に始まったのです。私たちは、その横的な子孫です。
 それゆえ、私たちは祝福家庭として現在の立場にとどまるのではなく、発展しなければなりません。国家の運勢を抱え、世界の運勢を抱えて生まれ得る子孫を生まなければなりません。

 結婚とは、新しい民族、新しい国家を形成するために、そのようなことができる人材を模索しようとすることです。今まで人々は、「自分のために結婚する」と言いましたが、私たち統一教会の結婚は、民族のために、世界のためにあります。
 民族は二つではあり得ません。私たちは民族のための夫婦であるがゆえに、結婚は一度しかできないのです。私たちは世界のために、神様のための夫婦であるがゆえに、結婚は一度しかできないのです。
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編集後記

1.最期の項目について

 某ブログに「ご子女様が離婚を認める発言をされた。」という記事が掲載されていましたが、それは統一教会の教えではありません。

 やはり嫁になる人間が知らない男と結婚前に手を握り合っていたら、気持ちがいいものではありません。ましてや、結婚している過去などあったら・・。

 世の中には「バツ1、とかバツ2」とかの表現がはこびっていますが、何度も結婚したら血統が乱れてしまいます。統一教会は「神の血統に帰る活動」をしています。

 礼拝で前に立つ人間が、「わが教会の教えも学ばないまま説教をする、」信じられない現象が今起こっています。

 まったく「真の父母を組織的に無視している団体。」といわれても「そのとおり」といわざるを得ない状況です。

しかし、これを反面教師として、「しっかりとみ言葉を統一教会会長をはじめ、世界の会長となっている方々が真剣に学びなおしていただきたい。」と懇切に願います。

2.このみ言葉を語る前に本当に投入された祈祷が存在しています。

どれだけ祈って語られたのか?知りました。真のお父様は祝福家庭をとてつもなく愛しておられます。、必ず知っておかなければならない内容ですので熟読をお願いいたします。


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