先々週より金光教加法教会長佐藤道文師の教話のレジメに

少し加筆をして掲載しています。

皆様のご信心の一助になればと願っています。

 

8.金光様がご祈念くださっている ~これ以上の事はない~

★これ以上の事は、私はないと思います

 昭和14年に、私は金光教の教師を拝命をしておったのです。3月だったと思うんですが、

 田舎のほうで、隣接教会の総代の方が57歳で急性肺炎になって1週間で亡くなったんで、その葬儀に参らせていただいたんです。【略】祭主が、祝詞をあげておられましたが、その中に、数えで57歳でしたが、急性肺炎になった。この頃は、ペニシリンがありますから、すぐ治るんです。その頃はなかったから、1週間ほどで死にました。その死に際でしょうか、言った言葉を書いておりましたが、その中で、こういうことを書いておった。

 「本部広前のご神米を自分はいただいた。親教会のご神米も頂かせてもらいました。日夜に

 お取次ぎいただいている在籍教会のご神米もいただかせてもらいました。これ以上のことは、

 私はないと思います」と言って、死んだんです。これが残っております。

 ※出川真澄講話集『信心・その深遠なるもの-無始無終の世界-』金光教北堀教会、

   平成13年、295~296頁

 

・私はお道の信心をさせて頂いて、何を有難いと思い神様に御礼をしてきただろうか?

・金光様が私の事もご祈念くださっているという事に「これ以上の事はございません」とは思い

 もしない自分のままでは「お道の信心でおかげを受けた」という人生にはならないと思う。

・金光様は具体的に何を願われているのか?

 

 《補足資料》 立教百五十年 前教主金光様のお言葉(2009年)

 「あたらめて、ご立教にかけられた親神様の思し召しと、これを謹んで受けられた教祖様の

 ご信心に思いをいたし、いよいよ、神と人とあいよかけよ立ち行く『神人の道』が、一人ひと

 りの生活に現されてまいりますよう、ともどもに、心を込めてお役に立たせて頂きたいと願っ

 ております。」

 ※『金光教第四十三回通常教団会議事録』金光教教団会事務局、平成22年3月、31頁

《補足資料》 教主就任奉告祭でのお言葉(2021年)

 「ただ今、神様にお願い申しあげましたが、至らぬ私が御用を受けさせていただくにつきまし

  て、本部広前の一修行生として、歴代金光様の御取次を頂き、生活の中に、教祖様の

  信心を求め現わしていく稽古を、日々進めさせていただきたいと願わせていただいて

  おります。」 ※金光教報『天地』二〇二一年五月巻頭言参照

 ・金光様のご祈念を具体的に頂き、自らも同じようにご祈念する。

 ・私たちも生活の中に信心(「神人の道」。教祖様の信心)を求め現わせるように取り組もうと

  した人生が「お道の信心でおかげを受けた」という事だと、私なりに受け止めている。       

9.Kさんを偲んで

 ・令和8年2月に88歳でご帰幽になったKさん。

 ・中学生の頃から日参をされ、ご晩年に施設に入居されるまで参拝を続けられた。

 ・稲作をされてきたが出来なくなって会社に任せてしてもらっている。

  しかしKさんはその事を忘れて、知らない人が勝手に自分の稲作をしている。誰かに盗ら

  れたのでないかと混乱して不安になっても、お広前に参拝すると気持ちが落ち着かれる

  様子を見てご家族も喜ばれ、「私たち家族がいくらKさんに言っても駄目なのに、教会の

  先生が言うたら安心する」と不思議そうに仰られた。

 ・認知症により出来ない事が増えていく中にあって靴にはGPSが付いているが、道に迷うこ

  となく自転車での教会参拝、拝詞を唱えてのご祈念、お届けをされるという事が分からな

くなったり、忘れてしまう  という事は晩年まで無く、お出来になられていた。

 ・Kさんは認知症になった時のために信心をしてきた訳ではないが、結果的に自らの信心に

  よって、自らが安心できる場所を得られ、言葉や理屈ではない安心というおかげを受けら

  れた。

 ⇒Kさんがお結界という場を頂こうとされ、長い年月をかけて信じるに足る場であると確信

  されてきた証である。ご家族には「先生が言うたら・・・」と見えるかもしれないが、Kさんは

  神様を頂いておられたのだと思う。私自身がお広前やお結界という場の働きを教えられた

  経験。

 ⇒Kさんにとっては認知症以前からお広前やお結界とは安心を得られる場であったという事

  が、認知症になられたKさんを通して、はっきりと確信させられた。

 

10.おわりにかえて

 《補足資料》 信心できるその事自体が素晴らしく、大切な事

 あんなに信心するお爺さんが、どうしてあのような不幸に出遭うのであろうかという思いに

 もなられた訳でありますが、その人は何かの目的、この事が良くなるようにという目的のた

 めに、その手段として、どうも信心を考えておられる。手段としてしか信心が考えられないと

 いうところがありそうです。しかしながら、もう少し考えて行きますと、信心が出来るという事

 は何かの為に手段として、しておるだけではない。なかには、良い人生を送りたいものだと

 か、幸せになりたいからだという事もあろうかと思います。それは、信心の目的ではあります

 が、手段ではないのでありまして、信心が出来るその事自体が素晴らしい事であり、大切な

 事だから信心をさせて頂いておるのであるという事を気付かせられるのであります。信心を

 して、天地の恵みを有難く頂く事が出来るという思いで生活が出来るという事。我が事もさる

 事ながら、他人の事が自分の事と同じように思い願えるという事。その事自体がそのまま

 神様の、何よりのおかげなのであり、何より神様のお喜びであり、人間としての幸せでもあ

 る。おかげを頂いた人生というものであるという事を思うのであります。

※『佐藤光俊大人教話集Ⅰ』金光教加法教会「7信心とおかげ」59~60頁、平成8年2月10日、

 ご本部広前月例祭後の教話

 ・人生の目的地や信心を迷いましても、私どもはお広前を頂いている。

 ・そこにはお結界がある。

 ・各地のお広前で先生方が「お道の信心でおかげを受ける」道筋へと私どもを導いてくだ

  さる御用にお当りくださっている。

 ・「これ以上の事はございません」という思いで金光様のご祈念を頂く事ができ、その事を

  神様に御礼を申し上げ、また自らも金光様と同じようにご祈念させて頂き、生活の中に

  信心を現わしていけるお互いでありたいと願いを込めて、本日のお話とさせて頂きます。

                                    (おわり)