神様の姿は見たことがない。そして声もまた聞いたことがない。
そんなものは無いのと同じという人もあるが
思えばコロナウイルスも見たこともない。しかしそれでもみんな存在すると知っている。
見たことも聞いたこともなくても神様はいない、コロナウイルスは存在するという。
実に不思議なことだ。
私の場合、日頃から神様との関係を深めているから、
明らかに存在することを体感的に分かっている。
そんな神様だから、神様の目からはどのように見えているのだろうか?と考えている。
私たち夫婦が結婚をする時に、私は結婚して幸せになる自信はあったけれど
妻を幸せにする自信がなかった。それで悩んでいた時に
妻が毎日の勤行をする中で「結婚相手に相応しい人だったら結婚させてください。
相応しくない人だったらきれいな形で別れさせてください」願っていたという話を聞き
この人の信心はホンマものや。この人を失ったら自分は詰んでしまうと受け止めて
結婚して下さいとお願いをして一緒になってもらった。
その時に考えたことがある。
神様から見てどのように思われているのだろうか?ということ。
例えば、
神様から見てもお似合いの二人なら問題はないが
「この二人は一緒にならない方がいい」と思っておられたとしよう。
二人は神様に「是非とも一緒にならしてください」とお願いしながら
結婚の話を進めていくがうまくいかず別れてしまう。
すると「あんなに神様にお願いをしたのに別れてしまった」と神様を恨む。
さらにはそこのところを無理をして結婚まで進めても結局のところ別れてしまうと
「神様の前で誓いを立てて結婚したのに別れてしまった」とさらに神様を恨む。
神様にしてみれば、初めから「やめておきなさい」と伝えていても
人間心が先走ってしまい、結果的に恨まれることになる。
神様ってかわいそうだな思えてくる。
そこのところを妻だったら、たとえ別れることになっても神仏の心と悟り、
受け入れられるところが素晴らしい信心と尊敬している。
金光教ではお結界という場所があり、教師が神様と私たちの橋渡しをして下さる。
お願いをしたり、お供えをしたりすると、
御神米という神様にお供えしたお米を下げてくださる。
そのお米を私の父は生のまま頂いているが
妻とは宗派の違う我が家では、ご飯を炊く時に混ぜて炊き、妻と一緒に頂いている。
しかしながら教師が留守中にお供えをしたのか、
お下げ頂いた御神米がいつまでも置いてある人がいる。
おそらくお願いをしたりお供えはするけれど、生米は必要ないのだろう。
御神米をどのように受け止めるかは自由なんだけど
私は神様に申し訳ないように思えてならない。
例えば旅行に行ってきたと、友人におみやげを渡すことがある。
しかしその友人か持ち帰ることなくいつまでも置いてあったら悲しい気持ちになる。
そう考えれば神様も、いつまでも御神米を持ち帰ることがなければ
きっと悲しい気持ちになっておられるだろうと考えている。
私が参拝する教会では月例祭のあとにお供えしていたパンを下げてくださるが、
これもまた受け取らずに帰る人がある。
パンを食べないのかダイエットをしているのか、不必要なのだろう。
私は病気により食事制限をしているが、
神様のお下がりだけはありがたく頂くことにしている。
たとえそれが食事制限に引っかかる食品であったとしてもである。
神様からのお下がりと受け止めて、私の身体のためにご用意して下さった
ありがたいものと受けとめて頂いているが、病気が悪化したことはない。
自身もそうだがつい独りよがりの信心になってしまっていることがある。
そんな時は「神様からはどのように見えているのだろうか?」と自問自答して
神様と仲良くさせてもらうようにしている。