また教師辞任の情報が聞こえてきた。
輔教の御用にあたらせて頂いている方へ届く
「金光教報」に掲載されていて知った。
子どもの頃からよく知っている方だけに残念でならない。
そういえば最近見かけなくなったなあと思っていた。

人生に於いていったい何があったのだろうか?
その方は子どもの頃から教会行事にも熱心で、よく信心されていた。
ズボラな私とは違い、高校卒業後は金光教学院を出て教師に取り立てられて
教師として長年御用もしてこられた方だが、
教会で見かけなくなったということは、信心されなくなったのだろうか?
私には分からない。

一方の私としては、ずっと信心をしていっぱい助けてもらっている。
昨日もお教会に参拝しながら辞任された先生の顔を思い出しながら
私ばかりが幸せになっていることを考えているうちに
「もったいない」と感じられてきて涙が出てきた。
いったい何が違ったのだろうか?

輔教集会の反省から、私たち輔教として何ができるのかを考えている。
輔教という御用は、これとこれとこれをしておけばいいということはなく
お教会に参拝させて頂く側からお教会に参拝者をお迎えするという意識の下
お教会の内容にならせていただき、教会長先生のお助けをさせて頂くと
これまでの研修会等を通じて教わってきたが
各教会長の考え方やお教会の御事情によって状況が異なっており
お教会の御用としてどこまで踏み込んで御用をさせて頂くかは
分かりにくく、結果的に「教会長の指示待ち」になっていると感じている。

本来の趣旨からすれば、究極的には昨今の教会長不在の教会や
親教会の教会長により兼務されている教会がある中では
輔教が短期的あるいは長期的として担えるようになっていかなければならない
のではないかと思うのです。
それは一人の輔教が担うのではなく、複数人による担い手でいいと思います。
つまりは教師側も信者側もそういう意識をもちながら
輔教としての御用に取り組ませて頂くということです。
その観点からすれば、教師として取り立てられた方が
辞任しなければならない事態というのは、
私たち輔教の力不足を感じます。

教師にばかり負担を強いていると、後継をして下さる方が居なくなり
教会は衰退し、人が助からなくなります。
もっともっと教会長先生の御用や在籍教師の御用を分担させてもらい
これまでの金光教にはない協力体制が必要になってくると考えています。

かつてある教会長から「私たち教師も神の氏子なんやで」と教わったことがある。
「だからといって『なあなあの関係』では、私の信心が間違ってしまいます」とお答えしたが
もう少し協力し合って、一緒にお教会を盛り立てて行かなければならない。
能登や東北の大震災の復興の御用も各教会長が
教会運営をしながら両方しておられる。
留守中を守るのか、派遣されるのかは分からないが、
そういう関係性をもっと強化して
お教会の役割を担わしてもらいたいと思っており
もうこれ以上には辞任しなくても済むように
神様に使っていただける自分でありたいと思う。