定年退職後、唯一続けてきた日参が止まっている。
今月初めに参拝したのを最後にずっとお休みしている。
参拝しなくなったのは、足の痛みが原因で
歩行困難となったからだ。
教会長先生にはLINEで日々お届けをさせてもらっているが
お休みが長くなってくると日々の生活に変わったこともなく
LINEの内容がマンネリ化してしまい
過去のLINEをコピペしてみたり、送信しなくなったりするようになってきた。
当然ながら通院もして服薬治療も続けているがまだまだ治る兆しが見えない。
その分を自宅で信心しているとも言えず
元来持っているズボラな性格が勢力をふるっている。
一日に一度は外出しようと思ってはいるが、
足がすぐに痛くなり、我慢できずに帰ってくる。
運転は足への負担が少ないため乗れないことはないが
教会近くのコインパーキングからの往復も辛くどんどんサボり癖が高まる。
日参については、退職後の人生を40代の頃から考えていて
50代半ばで転勤になった通所事業がきっかけとなった。
勤め先の福祉施設から自立された利用者が、施設の近隣に住み
施設のプログラムに参加するため通ってくる事業で
毎日通所してもらうことで安否確認だけでなく体調チェックや
心配ごとなどを早期に聞き取るきっかけを作り
自立生活を長く続けてもらうための事業である。
しかし長年来られていた方が「しんどくなった」と言って休みがちとなり
1か月2か月と顔を見ないと思っていたら重篤な病に冒されていて
入院されたかと思えば半年もしないうちに亡くなってしまう姿を見てきた。
そこで日参をすれば、不熱心だった信心も出来て
身体への適度な運動にもなり、神様の御用も出来る
そのうえ定期券を購入して参拝すれば、
大好きな鉄道も見れるし乗れるしと一石五鳥の考えで始めたけれど
足の傷ひとつで出来なくなっている。
以前に妻が体調を崩したことがあり、家事労働を担うことになり
日参が出来なくなったことがある。
その時には、日参は自分の努力だけで成り立っているのではなく
妻の理解と協力があって初めて日参が続けられていることを感じた。
日参をしなくなり、家に入る時間が長くなると社会との接点が減り
毎日書くブログ記事の内容にも事欠くようになってきた。
そんな中で一番ありがたいことは、妻の毎日の勤行で
他宗派の私が言うのもおかしいが、毎日よく信心をしている。
身近にいるからこそ分かる事実だが、本当によく信心をしている。
その中には家族や兄弟、親たちのことも願ってくれているが
なんと言っても夫である私自身のことを願ってくれている。
私が日参をサボりながら元気に過ごさせて頂けるのは
すべて妻の信心の賜物といっても過言ではない。
言わば妻の信心に守ってもらって生活が出来ているようなものである。
妻の信心する姿を目の当たりにしながら、このままでいい訳がない。
足が痛くて歩けないのは仕方がないが、
自由に参拝が出来ない今だからこそ
信心が試されているとも感じてきた。
今の私に何が出来るのだろうか?
よく考えて行動させてもらおうと思う。
今月初めに参拝したのを最後にずっとお休みしている。
参拝しなくなったのは、足の痛みが原因で
歩行困難となったからだ。
教会長先生にはLINEで日々お届けをさせてもらっているが
お休みが長くなってくると日々の生活に変わったこともなく
LINEの内容がマンネリ化してしまい
過去のLINEをコピペしてみたり、送信しなくなったりするようになってきた。
当然ながら通院もして服薬治療も続けているがまだまだ治る兆しが見えない。
その分を自宅で信心しているとも言えず
元来持っているズボラな性格が勢力をふるっている。
一日に一度は外出しようと思ってはいるが、
足がすぐに痛くなり、我慢できずに帰ってくる。
運転は足への負担が少ないため乗れないことはないが
教会近くのコインパーキングからの往復も辛くどんどんサボり癖が高まる。
日参については、退職後の人生を40代の頃から考えていて
50代半ばで転勤になった通所事業がきっかけとなった。
勤め先の福祉施設から自立された利用者が、施設の近隣に住み
施設のプログラムに参加するため通ってくる事業で
毎日通所してもらうことで安否確認だけでなく体調チェックや
心配ごとなどを早期に聞き取るきっかけを作り
自立生活を長く続けてもらうための事業である。
しかし長年来られていた方が「しんどくなった」と言って休みがちとなり
1か月2か月と顔を見ないと思っていたら重篤な病に冒されていて
入院されたかと思えば半年もしないうちに亡くなってしまう姿を見てきた。
そこで日参をすれば、不熱心だった信心も出来て
身体への適度な運動にもなり、神様の御用も出来る
そのうえ定期券を購入して参拝すれば、
大好きな鉄道も見れるし乗れるしと一石五鳥の考えで始めたけれど
足の傷ひとつで出来なくなっている。
以前に妻が体調を崩したことがあり、家事労働を担うことになり
日参が出来なくなったことがある。
その時には、日参は自分の努力だけで成り立っているのではなく
妻の理解と協力があって初めて日参が続けられていることを感じた。
日参をしなくなり、家に入る時間が長くなると社会との接点が減り
毎日書くブログ記事の内容にも事欠くようになってきた。
そんな中で一番ありがたいことは、妻の毎日の勤行で
他宗派の私が言うのもおかしいが、毎日よく信心をしている。
身近にいるからこそ分かる事実だが、本当によく信心をしている。
その中には家族や兄弟、親たちのことも願ってくれているが
なんと言っても夫である私自身のことを願ってくれている。
私が日参をサボりながら元気に過ごさせて頂けるのは
すべて妻の信心の賜物といっても過言ではない。
言わば妻の信心に守ってもらって生活が出来ているようなものである。
妻の信心する姿を目の当たりにしながら、このままでいい訳がない。
足が痛くて歩けないのは仕方がないが、
自由に参拝が出来ない今だからこそ
信心が試されているとも感じてきた。
今の私に何が出来るのだろうか?
よく考えて行動させてもらおうと思う。