今年に入ってから信心を始められた方があり、
自分としてはどう接すればいいのだろうかと考えている。
教会長が対応されているが、どうも得心がいかないのか
私とLINEでおともだち登録をしてきて
私の参拝時間に合わせて来られることになった。

「参拝の仕方が分からないのでしょう。」「そうです」
想像はすぐに出来た。
金光教には「これさえしておけばいい」というものはなく、
初心者には分かりづらい。
これに反して他宗教であれば、分かりやすいと思える。
そのため教会長も「それでいい」と仰るばかりで得心がいかないのだ。
その代わり、自ら「これでいく」と決めれば否定もされず自由なのだが
昭和の時代のように強制される時代には「自由さ」は良かったが
令和の自由な時代には、むしろ分かりにくい宗教になってきているようだ。

また私のように親の代から信心をしており、
物心が付いた頃にはすでに家庭に信心のあった家とは異なり
信心の初代の人には、その積み上げもなく理解しにくいように思える。
かと言って、昔のように「他人のやり方を盗む(真似る)」
というような教わり方は適当ではなく
何かにつけてきちんと教わる時代だけに分かりにくい。

またそれぞれの信心はレベルが違うので、いくら説明してみても思い通りには伝わらない。
だから教会長は「お掃除」を勧められ、「続けていくことが大切」と言われても
自らの願いとの関連性が新しい方には理解が出来ない。
結局のところ、自ら求めて求めてしていかなければならないから、
求めて求めてしていない状態では伝わり方が違ってしまう。
自らに置き換えても30年前、40 年前に聞いた話を今になって思い出して
ああいうことか、こういうことかと長い月日を経てやっと身に入ることも少なくない。
人が10年かかったことをアドバイスしてもらったからといって3年にはならない。
それだけの信心辛抱の積み重ねが無ければ助かっていかない。
それは形ではなく、その人ひとりひとりの歴史であり、
その時その時でみればそのやり方や過程はあまり関係がない。
だからそれぞれの信者さんには、それぞれのレベルでの信心の形があって
その姿だけを切り取って「良し悪しの判断」をするのは適当ではなく
その人なりの精一杯の形なのだ。
偉そうに言っている自身でさえ、37年も週に1日しか参拝せず
月例祭の日を避けて参拝していたこともある。
それが定年退職を機に日参が出来るようになり、月例祭でも常連の顔になっており
たまに休むと、他のご信者さんに心配される始末である。
妻とは宗教が異なるが、一緒に同じレベルで信心させてもらっているから
お互いに信心の話も合うのだ。
「信心に友だちは要らない」と言われる理由がやっと分かってきた。
妻こそ私の信心のライバルなのだ。

やはりどの人もコツコツと信心させてもらっていかなければならない。
自分がこれでいいのか分からなくなる時があるが、
やっぱり他人のやり方は、参考になっても答えにはならない。
結局のところ話をよく聞いて、さらには自らでも練り出しながら
コツコツと自ら求めて悟っていかなければならないように思っている。