今年もお教会で御大祭をお迎えさせて頂いた。
「お迎えさせて頂く」というのはどういうことだろうか?
これまでもそうだが、御大祭の日は年始から決められている。
放っておいてもその日はやってくる。
何もしなくても勝手に月日が過ぎていき、
お教会では決められた日、決められた時間に御大祭が行われ、
式次第に沿って進み、そして終わっていく。
そこには私に居ろうが居らまいが関係なく、御大祭が執り行われていく。
その中で自分がどう取り組ませてもらうかが問題であり
何日も前から準備のための御用奉仕があり、
そして当日の御大祭があり、そして後片付けの御用奉仕がある。
それらが毎年あるのも当たり前のことであり、
自分一人が行こうが行かまいが関係ないけれど
その日、神様の日に自分の都合を合わせて都合をつけさせてもらい
取り組んでこそ、御大祭をお迎えさせて頂けるのである。

そのためには、都合が付かなければ御用奉仕にも行けない。
人には皆、いろいろな事情がある。
家庭のこと、仕事のこと、友達のことなどさまざまな中で
都合が付かなければ御用奉仕にも行けない。
御用奉仕は自分のやれる範囲でやればいいことなのだが
「やれる範囲」というのが曲者で、
自分の都合というのは、その重要性や好き嫌いによっても
やれる範囲は変わってくる。
すべての段取りをつけていても、のっぴきならない制約も入ってくる。
それらが全部整い、都合がついて行かなければ御用奉仕はおろか
御大祭にも参拝は出来ない。

当日も朝早くから最終の準備の御用奉仕の段取りをつけてもらい
御大祭の時間がやってきてお迎えさせて頂くのだけれど、
御大祭が始まって少し経ってからお教会に来られる参拝者を見ると
「せねて始まる前に来れなかったんだろうか?」と思ってしまうけれど
見方を変えれば、その人はおかげが頂けなかったから時間前には来れないんだ。
それに比べて、自分はおかげが頂けているから朝早くから来れたんだと理解できる。

そう思うと、その人は時間に間に合わなくても参拝のおかげを頂かれ
自分は朝早くから御用奉仕に関わらせて頂いておらえるのも
おかげが頂いてのことと受け止められ、
どういう事情があったのかは分からないけれど、
お祭りに遅れてくる人もお祭りの途中で帰られた人も
それぞれのレベルでのおかげを頂かれての参拝だったのだとして
受け止めて、参拝が出来られて良かったと
受け入れることが出来るようになってきた。

単に御大祭にお参りするだけのことと言っても
あらゆることあらゆる場面に於いておかげを頂かなければ
何一つ出来ない自分であり
それらをすべて網羅できるほどの大きなおかげを頂いてこそ
私自身が御大祭をお迎えさせて頂けたことの偉大さを感じ、
神様には言い尽くせない御礼を申し上げている。