私が信心をさせてもらうようになって約37年くらいになる。
本当は、信心をしている家庭に生まれて62年近くになるし
事あるごとに教会に連れていかれ、
ほとんど教会で育ったようなものだけど
ちょっとも有り難さが分からず、
長い間、信心というものが分からなかった。
教会に行くのも嫌になり、行かなくなった頃
創価学会を信奉する妻と知り合うとともに
先代教会長との出会いがあり、
育った教会じゃない教会に御縁を得たことで
信心について改めて教えてもらい、
客観視することが出来てだんだんと
両親のやっていたことが理解できるようになり
両親のやってきたことが有難くなってきた。
それと同時に今までに覚えさえられた御教えが
私の中で次々とヒットしていき、
あたかも大木のあちらこちらにバラバラに飾り付けられた
クリスマスツリーの電飾のごとく一本の線で繋がって
それぞれに光始めたような印象である。
それでも人生の先輩たちの信心のあり方については
すぐには理解が出来ず、
「このオッサン、なに言うとるねん?」と思いつつも
黙って聞き流してきたことも信心が進んでいくにつれて
だんだんと分かってきたことも多い。
今でも忘れられないのは、小学生の頃に
箕面スパーガーデンの一室を借りての信心研修会で
『車に乗っていて急いでいるのに赤信号で止められた時に
「これは神様が止めて下さったのだ」と思うようにしている』
という話である。
子ども心には単に赤信号で止まっただけやんか。
何が神様のおかげなんや?アホとちゃうか!というものである。
この話をされた方はすでにお亡くなりになっておられるが
子どもの頃に育った教会のお祭りに参拝すると
高齢になられたその方の奥様が今も参拝されておられる姿を見て
「オジサン、あんなふうに思ってごめんなさい」と謝っている。
そういう話は他にもたくさんあって、
その方のお子さんを見て謝っていることもある。
そういう思い出の中でお育てを頂きながら
信心させて頂けているひとつひとつが有難く思う。
そう考えると日々の暮らしがありがたくてしょうがない。
それだけじゃない。
10年以上も前から私のブログを読んで下さっている
金光教札幌南教会の西川先生や
輔教研修会で一緒になった周防大島の方、
先日亡くなられた鹿児島の教会の末子さんから
「あなたが意識せずに何気なく話している話の中に、信心がある。」
「教師はお結界から道を説いているが、あなたはお広前から道を説いている。」
と言われたことが私自身の自慢である。
こうやって自慢話を書いているだけで、ありがたくて涙が出てきた。
私自身としては、好き勝手に生きて
好きなことをブログに書いているだけのことだけど
さまざまな人々や物事を通してお育て頂いており、
ありがたくてありがたくてたまらない。
毎日参拝していくら神様に御礼を申し上げても足らないばかりである。
本当は、信心をしている家庭に生まれて62年近くになるし
事あるごとに教会に連れていかれ、
ほとんど教会で育ったようなものだけど
ちょっとも有り難さが分からず、
長い間、信心というものが分からなかった。
教会に行くのも嫌になり、行かなくなった頃
創価学会を信奉する妻と知り合うとともに
先代教会長との出会いがあり、
育った教会じゃない教会に御縁を得たことで
信心について改めて教えてもらい、
客観視することが出来てだんだんと
両親のやっていたことが理解できるようになり
両親のやってきたことが有難くなってきた。
それと同時に今までに覚えさえられた御教えが
私の中で次々とヒットしていき、
あたかも大木のあちらこちらにバラバラに飾り付けられた
クリスマスツリーの電飾のごとく一本の線で繋がって
それぞれに光始めたような印象である。
それでも人生の先輩たちの信心のあり方については
すぐには理解が出来ず、
「このオッサン、なに言うとるねん?」と思いつつも
黙って聞き流してきたことも信心が進んでいくにつれて
だんだんと分かってきたことも多い。
今でも忘れられないのは、小学生の頃に
箕面スパーガーデンの一室を借りての信心研修会で
『車に乗っていて急いでいるのに赤信号で止められた時に
「これは神様が止めて下さったのだ」と思うようにしている』
という話である。
子ども心には単に赤信号で止まっただけやんか。
何が神様のおかげなんや?アホとちゃうか!というものである。
この話をされた方はすでにお亡くなりになっておられるが
子どもの頃に育った教会のお祭りに参拝すると
高齢になられたその方の奥様が今も参拝されておられる姿を見て
「オジサン、あんなふうに思ってごめんなさい」と謝っている。
そういう話は他にもたくさんあって、
その方のお子さんを見て謝っていることもある。
そういう思い出の中でお育てを頂きながら
信心させて頂けているひとつひとつが有難く思う。
そう考えると日々の暮らしがありがたくてしょうがない。
それだけじゃない。
10年以上も前から私のブログを読んで下さっている
金光教札幌南教会の西川先生や
輔教研修会で一緒になった周防大島の方、
先日亡くなられた鹿児島の教会の末子さんから
「あなたが意識せずに何気なく話している話の中に、信心がある。」
「教師はお結界から道を説いているが、あなたはお広前から道を説いている。」
と言われたことが私自身の自慢である。
こうやって自慢話を書いているだけで、ありがたくて涙が出てきた。
私自身としては、好き勝手に生きて
好きなことをブログに書いているだけのことだけど
さまざまな人々や物事を通してお育て頂いており、
ありがたくてありがたくてたまらない。
毎日参拝していくら神様に御礼を申し上げても足らないばかりである。