私は本来、合理主義な性格だと思っている。
家の中で用事をする時でも
何かを持って行って回送で帰るのは損をした気分になるから
何かを取りに行くまで置いておいて一気に済ませたい。
そして面倒なことは嫌いだから物が溜まっていき
片付けられない性格にもなっている。
また物の扱いも雑なところがあります。
しかし信心のことと考える時は、違うモードのスイッチが入り
『実意丁寧、神信心』という言葉が意識の中に流れてきて
神様のことをさせて頂く時には、「あの人は『実意丁寧』な人に思われたい」
という行動を目指してしまう。

先週のブログに書きましたようにご信者さんの葬儀の手伝いに行った日、
教会長がお供え物を盛りやすいように買ってきた野菜、果物、乾物、お菓子を
袋やパックから出してタオルで一つ一つ丁寧に拭かせて頂いていた時のこと。
その様子を見ておられた式場の方は大きなゴミ袋を持ってきて
私が剥がした野菜くずや私が開けた野菜の入っていた袋やパックを
一切合切ゴミ袋に集めようとされる。
私が分別したいと伝えると、式場の方はここのゴミは分別せずに出せると仰り
教会長も一緒に捨てればいいと仰ったが
それは分かっているが、分別したいので自宅に持ち帰りたいと無理を言って
持ち帰ってきた。
帰り道、一人で運転しながら自分はどうしてああいう行動をとってしまったのか
反省してみた。

先ず、お供え物として買わせてもらった物であるからゴミと思えないということ。
普段はええ加減な性格だけど、神様の御用としてさせて頂いていると思うと
せめて分別でもさせてもらって社会貢献できる私でありたいと思ってしまう。
でもこれが、仕事であるとか自分がイベントの代表者であったりすれば
そんな細々としたことには関わっておれず、おそらく一切合切ゴミ処理したであろう。
そう言えば、教会のトイレ掃除でハイターを使った時、
使い終えた空の容器を分別して捨てる所が分からず、
分かりやすいように室内の小さなゴミ箱に入れて帰ったことがあるが
その翌日に教会長から「あのゴミ箱は小さなゴミを入れる所だから、
大きなゴミ(ハイターの空容器)は外のゴミ箱に入れるように」と言われて
「そんなことなら持ち帰ればよかった」と思ったことを思い出した。

仕事として考えてみれば、
式場の方や教会長の言われたことは間違ってはいないし
私自身でも同じ行動をするけれど
これが信心としてでは意味合いが変わってくる。
私の分別したことくらいは社会全体で見れば大したことではないが
私なりの真心であり、実意丁寧を現す私自身の信心生活では大きなことである。
分別されない人のことを決して悪く思っている訳ではなく
仕事としては当然のことと理解している。