今年も無事に新年を迎えさせて頂き、妻は創価学会の新年勤行会、
私は金光教の元日祭にそれぞれに参拝させて頂きました。
教会には、日頃はほとんど見かけないご信者さんのご家族で満員でした。
教話では「ありがたい」の反対は「当たり前」という話をして下さいました。
どのくらいの方々が真剣に話を聞いておられるのか不安になるくらい
元日祭では日頃はほとんど見かけない小さな子どもたちも多く、
ギャーギャーとわめいたり、「絵が描きたい」と親にせがんだり
突然に泣き出す子どもが居たりと、うるさくて堪らない。
しかしこの状況下でふと考えてみた。
日頃の月例祭では高齢者中心の参拝で静かなお祭であり、
教話も静かに聞けるけれど、
これこそが「当たり前」であって「ありがたくない」ことに気が付いた。
老若男女を問わず大勢の参拝があってこそ、
子どもの声がしている教会こそが、本来のあるべき姿であり「ありがたい」のであって
自然な「当たり前」こそが「ありがたくない」ことに気付かせてもらい、
やかましい元日祭のおかげを頂きました。
そのことを神様に御礼を申し上げる元日祭となりました。
私は金光教の元日祭にそれぞれに参拝させて頂きました。
教会には、日頃はほとんど見かけないご信者さんのご家族で満員でした。
教話では「ありがたい」の反対は「当たり前」という話をして下さいました。
どのくらいの方々が真剣に話を聞いておられるのか不安になるくらい
元日祭では日頃はほとんど見かけない小さな子どもたちも多く、
ギャーギャーとわめいたり、「絵が描きたい」と親にせがんだり
突然に泣き出す子どもが居たりと、うるさくて堪らない。
しかしこの状況下でふと考えてみた。
日頃の月例祭では高齢者中心の参拝で静かなお祭であり、
教話も静かに聞けるけれど、
これこそが「当たり前」であって「ありがたくない」ことに気が付いた。
老若男女を問わず大勢の参拝があってこそ、
子どもの声がしている教会こそが、本来のあるべき姿であり「ありがたい」のであって
自然な「当たり前」こそが「ありがたくない」ことに気付かせてもらい、
やかましい元日祭のおかげを頂きました。
そのことを神様に御礼を申し上げる元日祭となりました。