毎年12月17日になると思い出す交通事故がある。
大学4回生のこと。当時阪神百貨店でアルバイトをしており、
オートバイでの通勤途中、自動車整備工場の前を通りかかった際に
店の前に停車していたトラックがウインカーを出さないままに発進し、
思わずその車を避けようとして急ブレーキをかけ、転倒した。
その時の様子はスローモーションのようにわが身が飛んでいくのを
走馬灯のように過ぎて行くのを感じた。

すぐさま誰かが救急車を呼び、救急病院へと搬送された。
骨折はしておらず、全身の打撲のみに終わったが、
バイト先に電話をして今日限りで辞めさせて頂くことになった。
全身の打撲により痛みはあるもののゆっくりなら動くことも出来、
それまではバイト先の昼休みの時間に卒論を書き始めてはいたが、
事故を機に卒論に専念する日々が始まった。
当時、近畿圏内の大学に通う学生と共に聴覚に障がいのある学生が
私たち聞こえる学生と同様に教育を受ける権利を守るために
手話通訳や要約筆記の保障を大学に求める学生運動をしており、
そのことについて2回生の時から書き貯めた資料をもとにした
卒業論文のテーマにしており、同じく運動を共にしてきた友人らは
「ずるい」とよく言われたものだった。
資料は十分に用意していたため、ただ起承転結に沿ってまとめる
だけだったのだが、資料に行き詰まると
近隣に住んでいおられた聾学校の教師宅に遊びに行っては
口頭(手話)で確認をして言質を取ることで加筆していった。
当時はまだワープロもなく、万年筆仕様で間違うたびに書き直し、
その結果、卒業論文の締め切り前夜に原稿用紙108枚に渡る
卒業論文が出来上がった。
今にして思えば、あの時の交通事故が無ければ間に合わず
留年していたかもしれず、骨折もなく打撲程度だったため
論文に専念することが出来たのだ。
その後、口頭試問も問題なく通り、教授からの評価も良く
大学図書館に保管されていたために、何年も下の後輩からも
「先輩の卒論読みました」とよく言われたものだった。
私たちの学生運動は東海地方や関東地方でも運動が起こり
東京に住む学生らが配ってくれた、私学振興財団が
全国の大学に支払った障がい学生のための援助金リストを
卒業論文の資料として添付していたことの評価が高く、
どうやって入手したのかが問題視されていた。

あれ以来、毎年12月17日になると思い出す。
当時福祉系大学生だった私は
「もし神様が居たら障がい者を生み出すはずがない」と
宗教には否定的であったが、両親をはじめ様々な方々のご信心で
私自身が守られていたことを実感している。
それと共に当時、一緒に運動をしてきた友人らは
それぞれの立場で社会に貢献されている方も多く、ウィキペディアに
載るほどの有名人になった者もあるがみんな心安くさせてもらっている。
本当にありがたいことだと思う。