今日、妻が認知症の母親の面会に行ってきた。
持参したシャインマスカットを母に見せて
「お母さん、このブドウは皮ごと食べられる」と伝えると
「そうか」と言ってそのまま口に運ぶ。
しかし次のシャインマスカットは、皮を取って食べた。
認知症の母は妻に言われた「皮ごと食べられる」ということを
既に忘れているようで「皮ごと食べられる」と言うと
「そうか」と言ってそのまま口に運んだあと、
次のシャインマスカットは、皮を取って食べる。
食べる度に記憶が消失してしまい、次のブドウを口にする時には
もう記憶がなく、長年食べ慣れた方法で食べるのだった。
認知症を発症するまでの母は、何個もまとめて口に入れると
器用に皮だけまとめて口から出すタイプだったが、
今は1個ずつ食べるようになった。
続いて小さく切っておいた梨を口にする。
「この小さな梨を食べよう」と言っては1切、口に入れ、
次の梨を口に入れる時は、その前に食べたことは記憶にないようで、
「この小さな梨を食べよう」と言っては1切、口に入れる。
これまでなら、いくら上等な物を食べさせてあげても覚えていないから
「もったいない」とよく言っていた妻だったが、
今日は「お母さんって何度も美味しさを味わえるから幸せに思う」と言い出した。
私たちであれば何個もまとめて食べてから「美味しいかった」と思うのに対して
母なら1切食べては美味しいと言い、また1切食べては美味しいと思える。
母は毎回覚えていないために、毎回美味しく感じているというのだ。
それはお母さんが幸せなのではなく、妻の受け止め方がありがたいのである。
『八寸のものを一尺にも喜ぶものには 足りぬだけは神が足してやる お願い一ぺん お礼十ぺん』
という御教えがあるが、妻が「幸せさがし」を自然にできるようになっており
これを「思い分けの信心」と言い、ありがたいことと夫婦で喜んだ。
持参したシャインマスカットを母に見せて
「お母さん、このブドウは皮ごと食べられる」と伝えると
「そうか」と言ってそのまま口に運ぶ。
しかし次のシャインマスカットは、皮を取って食べた。
認知症の母は妻に言われた「皮ごと食べられる」ということを
既に忘れているようで「皮ごと食べられる」と言うと
「そうか」と言ってそのまま口に運んだあと、
次のシャインマスカットは、皮を取って食べる。
食べる度に記憶が消失してしまい、次のブドウを口にする時には
もう記憶がなく、長年食べ慣れた方法で食べるのだった。
認知症を発症するまでの母は、何個もまとめて口に入れると
器用に皮だけまとめて口から出すタイプだったが、
今は1個ずつ食べるようになった。
続いて小さく切っておいた梨を口にする。
「この小さな梨を食べよう」と言っては1切、口に入れ、
次の梨を口に入れる時は、その前に食べたことは記憶にないようで、
「この小さな梨を食べよう」と言っては1切、口に入れる。
これまでなら、いくら上等な物を食べさせてあげても覚えていないから
「もったいない」とよく言っていた妻だったが、
今日は「お母さんって何度も美味しさを味わえるから幸せに思う」と言い出した。
私たちであれば何個もまとめて食べてから「美味しいかった」と思うのに対して
母なら1切食べては美味しいと言い、また1切食べては美味しいと思える。
母は毎回覚えていないために、毎回美味しく感じているというのだ。
それはお母さんが幸せなのではなく、妻の受け止め方がありがたいのである。
『八寸のものを一尺にも喜ぶものには 足りぬだけは神が足してやる お願い一ぺん お礼十ぺん』
という御教えがあるが、妻が「幸せさがし」を自然にできるようになっており
これを「思い分けの信心」と言い、ありがたいことと夫婦で喜んだ。