私の友人で精神的な疾患によりしんどくなられ休職された方がいる。
それで教会で友人のことをお届けし、教会長も毎日その方のことを願って下さり、
日々の御祈念を頂いた結果、元気になられて仕事に復帰されることになった。
その方の母親は敬虔なキリスト教信者であり、私が信心をしていることも
知っているため、あなたのことを願ってきたのは私だけでなく
私が参拝する教会長も毎日お願いして頂いていたことをお話しすると、
「見ず知らずの人が自分のことを願ってくれるということがあるのか」と驚かれ、
一度教会長にお会いして御礼を言いたいと言うので教会にお連れしたことがある。

信心をされていない彼は、教会長に御礼を述べられたあと
この神様はどういう神様ですか?と尋ねられ、教会長から説明を受けていたが、
私はそんな説明で本当に理解できるのであろうか?と思ってしまった。
姿も見えず、形も分からない神仏について口頭でいくら説明されても
私なら到底理解できないと思うのだ。
正直私はこの神様がこういう神様だから信心しているのではなく、
たまたま生まれた家に信心があり、両親が信心を中心にした生活をする中で
私自身が育っていく中で「おかげ」を感じ、神仏が分かるようになり、
今、神様に向かわせて頂いている。
この神様がどういう者なのかはよく分からなくても
この神様と共に過ごしているだけで助かっていくことを経験上よく知っており、
信心させてもらっているが、そんな体験もせずに理解できるものだろうか?
と思ってしまうのだ。

「信じる者こそ救われる」という言葉もあるが、「信じる者こそ騙される」
というパロディがあるくらい、姿も音も聞こえない物体を信ずるなんて
あり得ない。「九死に一生を得る」というように
医者にさじを投げられたり、支払いが間に合わずどうにもならないという
瀕死の状態にでもならない中では「わらをもすがる」気持ちにはなれない。
よっぽど私自身に信頼があって、この人の言うことなら騙されても構わない
とでも思ってもらわない限り、神に向かう気持ちになんてなれるだろうか?
でも私は困ったことがあるから信心しているのではなく、
信心させて頂くことで困り事も起きにくく、起きてもすぐに解決するのだ。