goodday,goodguy
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白珪尚磨可

上海の友人と吉林の友人がお餅の料理方法についてバトっていた。お餅をフライパンで焼くか(上海)、油で揚げるか(吉林)。なんでそんなことにこだわるのかと思う程、数十分も熱心に議論していた。食生活は個人の深い深いところまで根を下ろしているものなんだな、と感じました。

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一度、口をついて出た言葉はもうどうにも修正が出来ないものです。いくら不適切で、後から修正する言葉を重ねたとしても、なかったことにすることは不可能なように思われます。

一方で、世の中的には「何でも言ったモン勝ち」というような風潮があって、後先に何が起こるか、どんな影響がでるのかを考慮せず、とにかくここで言わなくては損だと言わんばかりに、自分本位な態度から子供のようにわめき散らす人がいるようです。


経済制裁に賛同する人は、それがどのような影響をもたらすのか、考えを聞いてみたいものです。外交の目的としては、政治・経済・外交、文化等、広い分野でのパワーバランスを保つこと、それにより、国内の秩序を保ち、他国との良好な関係を築き、国際社会の平和を実現し維持することだと考えます。経済制裁を行なうことで、本当に地域の安全保障は実現されるのか、その根拠はどこにあるのか、彼らに応えていただきたいと思います。

かつて日中戦争・太平洋戦争開戦において、米国から経済制裁が発動された日本は、金融、食糧、貿易、国内産業に関して、次々と戦時経済立法を成立させ、それ以前から存在した治安維持法と合体することで、一気に戦時体制を完成させていった経緯から、経済制裁は戦争攻撃の第一歩だと感じてしまう。もちろん、当時の米国と日本の経済的な関係と、今日のそれとは環境が違うこともあるとは思うけれど、歴史から、経済制裁の基本的な効果とその影響はある程度推測が可能なのではないかと思います。

rush of year-end parties

12月に入ってから次々と忘年会のお誘いの声がかかっている。とはいっても、その回数は商社マンの友人たちの比ではないけれど。昨年のこの時期の彼らの顔は黄土色で、明らかに肝臓に故障がでているような、そんな顔色の悪さであった。こんな自由業の私でさえ、ちょくちょくお酒を飲む機会があるのだから、社会人は特に、社交生活上の付き合いもあって自分でコントロールしないとどんどん酒量は増えていくと思う。体には気を付けて年を越していただきたいなと思う。

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先日恋人とクリスマスプレゼントに欲しいものリストを交換したところ、ほぼ自分が欲しいものは相手にとっても「あ、欲しいかも」というものだったのが笑えた。

もっと健康志向に

先日、忘年会がクラブであったのですが、美味しいシャンパンやワインを飲んで、美味しい料理をいただき、次の日、筋肉痛になるほど踊りまくりました。自分がこれまで出席したなかでもっとも健康的な忘年会でした。私としては、日本人の忘年会のスタイルはちょっとワンパターンすぎると思うのだけど。。

キョリ感の問題

朝から、人気のない図書館で夏目漱石の随筆を読む。午前中の新鮮な日の差し込む図書館には新しい本の手触りのごとく特別な心地よさを覚える。最近、論文作成の合間を縫って、好んで漱石の随筆を読んでいる。

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この2,3年間、何を学んできたか?と問われたら、経済学の修士号を得る(予定)の学生にも関わらず、「歴史と哲学」と応えるのが自分としてはしっくりくる。経済学は自分をわくわくさせるところもあるけれど、(最後まで何が起こるかわかならいが)知識の集積の域をでていない。しかし、歴史(特に近代日本史)と哲学はそれ以上のいくつかの重要な価値を見出すことが出来た。

そのひとつとしては「対象」から距離をおいて考える、客観的視点の獲得だろうと思う。私の先生はそれを「自愛の克服」と表現していた。つまり、国籍、性別、年齢に関係なく、すべての人は自分の考えを絶対的に一番良いと錯覚してしまう。自分自身の主観からしか自分の考えを捉えられない。これを「自愛」と定義する。しかしこのような距離をおいて検討することができない状態では、他と比較して考えることもできないし、ましては自己批判をすることは不可能である。自己批判ができないとなると、あらゆる社会的な変化に対しては、じっくりと自己批判をすることなく、上滑りの適応しかできなくなる。いやしくも「社会的進歩」という現象があるのであれば、必ず自己(内部)批判が伴っていないといつかその進歩は瓦礫するだろうと思う。したがって、H・スペンサーの意味する「社会的進歩論」(ソーシャル・ダーウィニズム)のような天然自然の進歩という事態はこの「自己批判」を契機としない限り起こりえないと考える。

私にとって、学問をする目的は、自己批判を行うため、自愛を抑え、どれだけ客観的に物事を考えられるかにあると考える。客観性の実現は自己本位の姿勢からは生まれてこない。謙虚さを身に纏う術を学ばなくてはならない。もちろん、これだけではないけれど、本質的にはこれに尽きると思う。


セーターを買いに

私はほとんど買い物をしない。そういうわけで日常着ているアイテムが極端に少ない。たとえば、この2ヶ月間、3枚のセーターを着まわしている。大学院の友人らは「また着ている」という感覚をすでに失い、あいつがあのセーターを着ているのは頭に毛が生えているくらいに自然なこと、と思ってくれていることだろう。そうは言っても、さすがにもう一着くらいないと気に入っているセーターを早く着潰してしまうこともあり、セーターを買いに行った。というか、この数日間、学校帰り、インターン帰り、暇を見つけてはセーターを買いに行っている。
買い物を好きなほうだが、極端な性格であることを自分でも自覚しているので、買い物に行くと、完璧に納得しないと買わない。購買率(買い物に出かける回数と実際に購入した回数の比率)はきわめて低い人間だと思う。商品と価格が妥当かどうか、買ってから10年間飽きないでいられるか、今もっている洋服と合うかどうか、素材は良いか、デザイン(特にライン)に品があるか、店員さんは正直かどうか・・etc.だからこの数日間は数十枚のセーターを着たし、いろいろなショップの店員さんと長々と話し合った。
そしてとうとう今日、あるショップにてまぁまぁ自分の気に入るセーターを2,3枚見つけた。試着して、どれがどのように私に合うのか、その相対的な違いや、絶対的な(ここでは直感的な)着たときの雰囲気を批評してもらった。よくいる「わぁーお客さん、似合っていますよ。なんかちょっと雰囲気が変わったって感じです」なんて曖昧なコメントには容赦ない質疑が私から入る。「今まで試着したものはジャンルが違うのですからどう違って似合っているのかそれぞれコメントしてください。」とか「雰囲気が変わったって、前はどんな雰囲気でこのニットを着るとどんな雰囲気にかわったのですか」と質問していく。するとさきほどまでテキトーにコメントしていた店員さんの表情が知的になり、私が試着している最中、必死で考えてくれるようになり、試着後のコメントが磨かれていく。そういうプロセスを私は重視する。
今日の店員さんのコメントは、手にしたニットを買うだけの説得性を私に与えたので購入した。ふと気がつくと、夏以来、5ヶ月ぶりの買い物だった。
 

三昧境にて

朝から晩まで修士論文作成の日々。全国のM2は「なぜ夏休みにもっと進めておかなかったのか!!」と痛恨の思いにかられているだろう。(え、わしだけ?)
先日、同じような論文作成中の友人が、久しぶりに自分の彼女に会ったとき開口一番「良い論文が見つかってさー♪」と言ってしまったのを聞いたとき「・・アホだな」と思ったけど、今なら友人の気持ちが分かる。分かってしまう・・・・私も昨晩自分の問題意識に近い論文をStanfordのページで見つけたときは思わず小躍りをしてしまった。朝から晩まで自分の最も知りたいことにフォーカスできるこの三昧境、一度浸ってしまうとなかなか簡単には抜け出したくないと思うものです。

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朝、ベッドの中でお茶の先生から借りている禅語解説の本を読みふける。毎月、床の間に掛かるお軸の言葉の意味を正確に知りたいと思って読んでいる。昔、学部時代の頃、教養科目で哲学を取っていたことがあり、先生が『十牛図』を取り上げ、解釈してくれたことがある。『十牛図』は古くから中国や日本の禅宗で、修行を始める僧たちの入門書として親しまれている。あの時の『十牛図』の講義があるから、今現在私は、『臨済録』『無門関』を始めとする禅書やその他の禅語の理解がだいぶスムーズにできるようになってきたのだと思う。先生のチョイスに感謝。
もう一度、『無門関』を読んで、それから『碧巌録』にも挑戦したいと思う。修士論文提出後、旅行に出る前の2月を書見に充てようかと思案中。

先生になりますか?それとも・・

先日、私のお茶の先生から免状取得について打診があった。私の所属する流派において、すべての免状を取得するには、下位免状と上位免状の取得に数年のインターバルを置かなければならず、トータル10年以上の年数がかかる。そのため、免状を取り、先生(教授)を目指すのであれば、今のうちから取得をしておいてはいかがですか、ということだった。
先生は「先生にならないのであれば、免状も、弟子もとらない、ひたすら自分の好きなお茶を追求する数寄者になるという道がありますが・・」とおっしゃった。私はまったく躊躇わず「私はそちらが良いですね」と即答してしまった。すると、先生が少々さびしそうなお顔をなされたので、私としても具合が悪く「もしかしたら、これから考えが変わって、教えることにも興味がわいてくるかもしれませんね。」とお茶を濁した。

何の為の免状か。自分の励みにするため?では免状があるのとないのとでは自分の行うお茶に違いができるのか?また免状がないのでは、自分のやる気やらは下落するのか?そんな自分の外からの評価に、自分自身が影響されるなんて、他のことならともかく、お茶においては許しがたい。そうなれば、免状はあってもなくても、自分にとっては基本的に無差別である。どちらでも良い。

私は(過去の)数寄者たちに憧れを持っているし、ものの価値について、どうしてそのものが他のものと比して重要なのか、について定義していく作業に興味がある。「あるもの」と「ほかのもの」を分ける作業に興味がある。それは古くは数寄者が行っていた。現代だと、それはお道具屋さんだろうかと思うが。とにかく、そういった作業がないがしろにされているから、ただある人の箱書きがあるだけで、プラス100万円などという狂乱がおきるのだと思う。狂乱は言い過ぎかもしれないが、少なくても理由が明確にされてなく、ただ「ある人が箱書きをしたから100万円の付加価値が生まれた」というのはどうも納得がいかない。なぜなら、その箱書きは一律いくらというように、中身に対して無差別だから。

この頃、江戸後期から大正時代にかけて活躍した数寄者についての本を読んでいる。時代のムードに屈せず、自分の抱く価値観を貫いた勇気ある数寄者には大いに奮起させられる。

my contradiction

MBAなんていらない。

会社から「取りに行っても良いよ」と言われても「いえ、結構です。他の人に譲ってあげてください」と言ってしまいそうだ。なぜなら、私は自分が知的興奮を得られないことに対しては、てんでやる気が出てこないから。かつてファイナンスの授業であるアメリカのMBAスクールで使われているケースを解かされたが、そこでの思考方法はひどく限定的なもので、特定の考え方を用いるため、アイディア整理としては役立つものだったけれど、substanceは感じられなかった。また、意思決定の方法論をみていても、前提以上のアイディアは最初から範囲外として処理されているのも問題だと思う。求める真のブレイクスルーはそこにあるかもしれないのに!!
例えば、アイスブレーキングをした場合、目的を設定し、最初にいろいろアイディアを出して、似たようなアイディアをおおまかにまとめて、いくつかの要素を抽出する。こうして「当初の目的に合致する要素」が導き出される。このステージに問題があると思う。なぜなら、当初の目的に理論的に合致しない要素をここで取りこぼしているから、そして取り込んだ要素(アイディアの集合体)は従来のpracticeの踏襲に過ぎず、解決案がここから生まれる可能性はそれほど高いとは思えないからである。これまで、何十回とアイスブレーキングをしてきているが、どうしたらこのアイスブレーキングの限界というか、弱点をimproveできるのか、まだ思案している。

そういうわけで、2年間も限定的な思考法を使ってばかりいたら、ある特定の事態には強い考え方しかできなくなってしまいそうで、恐ろしく思うし、こんな考え方ばかりしていたら、体系的な考え方を前提とした問題意識に関する論文が書けなくなってしまいそうだ。たった数千万円と引き換えに自分の思考の自由度を奪われてたまるものか。

ただし、「たくさんの優秀な人と仲良くしておいで」ということならば、行くと思う。人とあれやこれや談義するのは、刺激を受けたい若い世代ということもあって、きっと楽しい経験になると思う。また、自分が至らない部分が多い為、劣等感からか、わりに選別眼はあるほうだと思う。


it's so strange

せっかくオークラのスペシャル・マスタード・ドレッシングを買ったのに、野菜が高くてまだ使えていない。何の因果か大好きなブロッコリーが260円もする。
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久しぶりにeconometricsの研究会に参加する。金利(短期)の予測に単位根があると想定するやり方はいくら使い勝手が良いからといっても、はじめは馴染み難いものだった。マクロ経済学的にはとんでもないのかもしれないけど、グレンジャーのスタンスからも理解できるように、最近のeconomeのトレンドは「使えれば良いじゃーん」というスタンスなのかもね。
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先日、友人の結婚式2次会で司会をしたのだけど、自分がいかに言葉を話すことに慣れていないかを痛感した。人前で話すことは慣れていると思ったのだけど、それは自分に対して過大評価していたようだ。結婚式が終わった後、仲の良い友人たち10人くらいで、新郎新婦が宿泊しているホテルの部屋にお邪魔した。女の子達は花嫁が脱ぎ捨てて、絨毯のうえにそのままの状態で放置されていたドレスを面白がって着ていた。それはそれはなんとも言えない光景です。

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ところで、こんなに更新していないのに、こんなに内容がばらばらなのに、どうしてこんなに読まれる方がいるのか、本当に不思議です。

wedding party

今週末、親しい友人が結婚する。この友人は、12月31日の朝まで、パジャマカラオケ(トレーナーとジャージの上にコートを羽織ってカラオケに行く。歌う時はパジャマ)をするくらいの仲の良い遊び友達の一人だ。その友人が自分の知らない世界(=結婚して築く家庭)へと旅立ってしまうのは、無論嬉しいのであるが、寂しく思う気持ちもある。別の友人に今の心境を「お姉さんが結婚してしまう弟の気持ち」と訴えたが賛同を得られなかったが・・・
二次会の司会を頼まれたのだが、二人の写真や生い立ちが記されているPPTが送られてきた。それを見て、いろいろと当日のコメントを考えるのだが、二人の結婚に対する思いが書かれた文章を読み、二人の旅行の写真を見て、私は二人の心情を思い浮かべて、不覚にもほろりとしてしまった。ああ、どうしよう。この分では当日が思いやられる。司会が泣いていたのでは話にならんしな。。。
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