文化庁方針では「障害表記が一般的」とし「碍」の常用漢字追加は見送る模様。(読売新聞)

 

書写をしながら考えてみます。内閣府はこれまで何度も検討しているようだけれども。
「害」は祭祀の道具であり機械である一方で、「碍」はその環境における人の状況や状態を表しています。どちらが適当かという議論になれば、たしかにダークなイメージの染み付いた「害」より「碍」の方かもしれません。しかしそれだけでよいのでしょうか。
大きな違いは、「害」は呪術的なルートから生まれたものである一方で「碍」はそうではない。(「碍」の説明は内閣府の発表したレジメに繰り返し出てくるので省略します。)「碍」の方が成り立ちが分りやすいものであるというこということから国民の理解が得られやすいかもしれません。
一方、「害」という漢字(漢の時代以前でも取敢えず漢字とします)はすでに金文(青銅器の鼎、鐘、盤などの表面に鋳込まれた文字)にあり、道具としての使い方もある程度推測されています。殷から周の時代の約3400年前に機械は存在せずオカルトではないかという方もいるかもしれません。私的にはオーパーツ(out-of-place artifacts)の類と考えています。しかしこれは現実に実物があればの話しです。この時代の「筆」などと同じように漢字は残っているが実物のイメージは文献でしか探ることができないのです。中国が殷墟を80年代まで慎重に深く掘り進んだのも様々な現物の証拠を捜し求めたためであると個人的には信じています。「害」はまず大きさがわからない。カキ氷の機械ほどか原子炉ほどの巨大なものかわからないのです。大きく2重構造になっており、中心に通っているハリは上下に動かすことができ、下の口のような器(sai)の中まで貫くことができる。このハリが原子炉の制御棒のように器の中のものの力を妨げることでコントロールする。いわゆる漢字の意味は、器の中の何らかの能力を妨げるということから来ているようです。
また、器(sai)の中に入れるものは祝詞(祈願文)ということですが、紙は約220年の蔡倫が端緒であったとされるから最初から紙とは考えにくく、恐らくこの時代の戦争の仕方(巫女と兵士の役割)とかかわりがあると思われます。現代人にとって「害」はあまり深くは考えたくない、あるいは踏み込みたくないおどろおどろしい呪術の世界の漢字なのかもしれません。なぜか一貫して政府は「害」の説明を避けてきました。判断には、もっと専門家の丁寧な解説が今一度必要だと感じます。

旧漢字はハリが器(sai)の入り口まで伸びて、まるで何かを威嚇しているようにも見える形でしたが、新漢字は2重構造の上の部分までで止まっております。恐らく某識者が新漢字に移行する時期にハリを引っ込める意見を出したのではないでしょうか。終戦から間もなく、「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、 国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。」という憲法に基き、すべての戦いが終わったという証を何らかの形で漢字を修正し残したかったのだろうと個人的には想像しています。今の憲法に基けば、やはり威嚇も武力も放棄でしょう。これこそひとつの叡智ではないでしょうか。書写をしながら考えるとわからないことがしばしば出てきます。私事になりますが、時代が許せばこの識者に入門してその世界の機微をささやかでも勉強したかったと思います。