どんどん時間が経っていってしまう。しかし無性に焦るも何もできない無力な自分がいることに気づくのです。ちょっと残念。社会はお金が支配する、は一理ある。資本主義社会ならなおさらで、ミクロ的にみても衣食住の豊かさは年収(財力)に比例するようです。移動手段ひとつをとってみても徒歩から自家用ジェットまで開きがあり、平等だといわれる時間すら買えてしまうかのようです。しかし、経済に支配されないものとは何かと考えてみると、意外と少ないのに驚き寂しさがつのるのです。心の豊かさですら攻守ともにお金がかかる。ある部分では買わないといけない世の中になってしまったと思います。一つには滑稽だけど何でもお金だな、というのを裏付けるかのように最近強くバイアスのかかった諸々がマスコミから響いてきます。でも、体裁のいい解釈でこれはちょっと寂しい。
4世紀の中国の書聖として名高い王羲之はあるとき、酒屋へ行きお酒を飲んだ。酒代を店主に要求されたとき持ち合わせがなく、代わりに板に「金」という文字を書いて店主に渡したという逸話があります。店主は後にその板を薄く削いでいくつも売り莫大な富を得たといいます。「金」という文字が富を生み出す話です。ありえないようでもなぜか心が惹かれ不思議とよく思い出すのです。生前すでに王羲之は能書として評判が高かったといわれますが、この時代の庶民にとって価値はそれだけではなかったでしょう。「金」という文字に隠された真価は不思議なものです。現代にも通じるものがあるのではないでしょうか。