「воз」(voz)という接辞も、「из」(iz)や「раз」(raz)とおなじように、ごんざの辞書では「воз」(voz)とつづったり、「вос」(vos)とつづったり、ごちゃごちゃになっている。
岩波ロシア語辞典 「вос...(接頭辞)=воз.(ただし無声子音の前で)。」
やっぱり、ひとつのことばが、「воз」(voz)のつづりと、「вос」(vos)のつづりの両方でみだし語になる、ということがでてくる。
「ロシア語」(ラテン文字転写) 「村山七郎訳」 『ごんざ訳』
「возписую」(vozpisuyu) 「書きつける」 『ゆかく』(よくかく)
「восписую」(vospisuyu) 「書く」 『かく』
「возъпоминаю」(voz'pominayu) 「回想する」 『たぬる』(たずねる)
「воспоминаю」(vospominayu) 「回想する」 『おわさする』
村山七郎注 「噂する」
「возпоминатель」(vozpominateli) 「回想者」 『たぬるふと』
「воспоминатель」(vospominateli) 「回想する人」 『おわさするふと』
「возпрiемлю」(vozpriemlyu) 「名付親となる」『でする』(代する)
「воспрiемлю」(vospriemlyu) 「受取る」 『うけとる』
「возпрiемликъ」(vozpriemlik') 「名付親、教父」『でするふと』
「воспрiемликъ」(vospriemlik') 「受取る人」 『うけとるふと』
みだし語のつづりの中に「прием」(priem)という部分があって、これは『うけとる』という意味なので、その意味を訳すと『うけとる』になる。でも、みだし語は、「プレゼントをうけとる」という意味ではつかわれない。それは「洗礼をうけてキリスト教徒になった子を親としてうけとる」という意味でつかわれるのだ。
ごんざはこの辞書をつくりはじめる2年前にペテルブルグで洗礼をうけていたから、こういうことはわかっていて、『でする』(代する)という訳語をつけている。英語の「godfather」だ。現代日本語でも「代父」というらしいから、ごんざの訳語の『でする』(代する)というのはぴったりだ。
ごんざはよくわかっているのに、どうして『でする』と『うけとる』に訳しわけたのだろう。
「возъпрещаю」(voz'preshchayu) 「禁止する」『さしぇん』(させない)
「воспрещаю」(vospreshchayu) 「禁止する」『いわしぇん』(いわせない)
「возъпрещенiе」(voz'preshchenie) 「禁止」 『さしぇんこと』
「воспрещенiе」(vospreshchenie) 「禁止」 『いわしぇんこと』
「возпретитель」(vozpretiteli) 「禁止する人」『さしぇんふと』
「воспретитель」(vospretiteli) 「禁止する人」『いわしぇんふと』
「возхваляю」(vozkhvalyayu) 「誉めちぎる」『くつふぉむる』(きつくほめる)
「восхваляю」(voskhvalyayu) 「称賛する」 『ふぉむる』