なぜ徳川政権は260年も続くことができたんおか
その理由を示すものが愛媛県の山里(宇和島市の松野町資料館)に。
山岳地帯(目黒山形)を象った精巧な木彫りのジオラマ。
航空写真もないのに非常に精度が高い。山に対する愛情がないと作れない代物。
実は裁判の資料。境界争いを幕府に訴えるため。
道や家々も、建物によって描き分けまでされている。山の木々も細かく書き分け。
資料としての信頼性を高めるため、手抜きは許されない。農民の切実さ。
の庄屋が、村に貴重な資源をもたらす山の利権をめぐって隣町の目黒を訴える。
「建徳時文書」
目黒村の庄屋 長左衛門 の記録
村人から陳情、「山に見知らぬ人が入って勝手に気を伐採している」
見つけて捕まえ、尋問してみると山を隔てた隣村の宇和島藩の村人。
隣村の庄屋を呼び出して抗議。
隣村の庄屋は「あの山は古くから宇和島藩の村村が使っていた入相の山だ。入会なのだから、自由に気を切っても問題ないはずだ。いったい何を根拠に目黒村だけのものだと言っているのだ」と主張。
入会の大和は、共同で管理される共有の山。
争いには互いの藩主たちの仲の悪さもあった。
宇和島藩初代藩主の遺言。五男に領地を分け与える。
2代目となった3男は猛反発。捏造とまで行ったが聞き入れられず、支藩・吉田藩が誕生。宇和島藩との関係は険悪なものに。
吉田町図書館に宇和島藩が作った藩の地図。まさかのど真ん中に宇和島藩を分断するようにある。なんでだよ笑笑 そんな分割の仕方ある? しかも宇和島藩有数の穀倉地帯。これはハラタツは確かに。先代何考えてるんだ?
藩の新設を受け、藩主や家臣が暮らす陣屋町と参勤交代に使う船を寄せる港を作った。そうした工事に必要な質の良い木材の産地の目黒も飛び地で与える。
配慮はわかるんだけど・・・
目黒山の利権を吉田藩に渡したくなかった宇和島藩が今回の騒動をふっかけたのがことノン原因だった。
境界を示すものを設置する行事初祈祷。杭や草履、など全国で行われてきた。今も伝わっている。
これを証拠として使って長左衛門は権利を主張。
隣村は嘘と主張。300の木々を伐採強行。
訴えるも役人は変わらずおよっ尾越し。
幕府に訴えに行くことを決意。850キロ離れた江戸に向け歩き出した!
山の種類はいくつかあり、
①御立山 藩所有で管理は村の山
②御留山 藩の所有で気を育てるために村人に立ち入りを禁止した山。
③入相山 村の境を超えて使うことが多い。
村の境を越えると他の藩になってしまったのんでいよいよ拗れた。
ゲスト
岩下哲典 東洋大学史学科教授 日本近世・近代史専門
「江戸将軍が見た地球」「権力者と江戸の薬」など
渡辺尚志 松戸市立博物館館長 一橋大学名誉教授 江戸時代の農民社会や百姓たちの営みを研究
「江戸・明治・百姓たちの山争い裁判」
ガスも電気がないので、燃料は木材のみ。化学肥料ないので、山菜が重要な肥料。
戦国時代は百姓達も自力救済の世界。こうした山争いの時は武器を持ち出して死者や怪我人モデル争いに。江戸時代は裁判の時代。
江戸時代は軍事に使っていたエネルギーを生産活動に使う経済発展の時代。
しかし、農地開拓は、林野を田畑にすることだから、もともと限られていた林野資源が減少。より林野の権利争いが激化。
文治主義の始まり。武力ではなく、裁判で。
長左衛門口がき実際にはもっと長い髪の継ぎ目に割印して偽造防止、自分たちの主張に対する気持ちの艶さ。
ほぼ同時期に宇和島藩は土佐藩とも境界争いしていた。
その際、土佐藩は、藩が当事者となるべきだと主張。それが幕府に認められなかったので、土佐藩は、藩士を百姓と偽って出廷させる。(藩士の弁舌が爽やかすぎて見抜かれる。)
長左衛門が当事者意識を持って奮闘したことは、その後の裁判の行方を左右する重要な意味を持つ。
長左衛門の家、現存。
翔也の仕事の手引き書。心構え。
「勤めても✖️3、勤め足りないものが勤めたりないものが勤めである。」
「村人は子である。自分は村の親である」
飢饉や天災、疫病の度に、資産切り売りして守る。子孫は年貢を肩代わりして一時破産に追い込まれたことも。
生活が厳しいところ。農業だけでは、山仕事がなければやっていけない、藩主の都合に任せるわけに行かない。
長左衛門と父親は、数十日の長旅で身なりはボロボロ、道中施しを受けてなんとか江戸に到着。江戸評定所に訴状を提出、そこに藩主兄弟の都合に振り回される人々の切々とした思いが綴られていた。
「隣村と境界を争っている山については、我が吉田藩目黒村のものであることに間違いはありません。このことを相手方の宇和島藩の御家老様、ご奉行様に採算申し上げてきたのですが聞き入れていただけず、吉田藩の御家老様・ご奉行様にもご報告したのですが、宇和島藩の藩主様は吉田藩の藩主のご兄弟であるので我慢してほしいと申し渡されました。
山を失えば村から次第に人はいなくなり、ついには無人の土地となるでしょう。
ご領主様たちにとっては、自分たち一代の問題かもしれませんが、山が自分たちのものなのかそうでなくなるかは私たち百姓にとっては末代の子孫まで続く切実な問題なのです。」
受け取ったのは井上河内守正利と幕府評定所の面々、合議の末受理することを決定。相手方隣村庄屋とともにもう一度江戸に来るよう命じる。やってきた二人に問題の土地の地形の模型を協力して作って持ってくるように命じた。(その場での言い合いを聞いているだけでは判断ができず、資料を持ってくるように言った感じかな?)
二人はいがみ合ったままではいつまで経っても問題は解決されず、お互いにとって不利益と判断し、きちんと協力しあって模型の作成をすることを約束、血判した。
「依怙贔屓しない」「口論をしない」
こうして村人達の生活をかけた模型作りが始まった。
小さな山村の訴えが聞き入れられた理由。吉田藩のバックアップ。後ろ盾があった。吉田藩にとっても領土が減るかどうかの問題。
それまでは奔る(逃げる)百章。領主の良し悪しなど、情勢によって転々としていた。
しかしここから「百姓は末代」の時代に入る。ここで生きるんだ!という思い。
この時期の他の境界争いでも同様の主張が多く出ていることから、全国共通の傾向と考えられる。
中世(日本だと室町から戦国?)の時代は農業生産力も低く、戦乱なども多いため、百姓達が同じ村で代々暮らしていくのは困難だった。それが江戸時代に入り、戦乱がなくなり、農業生産力も向上し、新田開発によって高知も拡大したことで、代々暮らしていくことが可能になった。
このことは建築からもわかる。
掘立柱の家だったのが、礎石の上に立てるようになり、床もしっかり貼るようになる。
百姓の家の永続性の意識がわかる。
どうやって複雑な地形を模型にしたのか。
高度な測量技術。
このスケールでこの大きさでこの制度は、これが随一。
金弱、距離を測る赤いなわ、水平と垂直を確かめるための分銅、方位計
三平方の定理。
測量結果は全て帳面に記録。測量にかけた日数は三ヶ月。使用した目印の杭は3242本。
記録されたのは、杭から次の杭までの方角と、山の斜面、のち綿の長さ、高低差。
確かめてみても、撮られたデータと模型がほぼ一致。
しっかりと記録に残すぞという意気込みが伝わってくる。結構短期間のうちにやってのけた。使用されている技術の水準を見ると、熟練したチームワークでないと出来ないのではないかと推測される。
完成した模型は持ち運べるよう6つに分割された。
長左衛門達は役人に護衛されながら再び江戸に。
寛文5年。裁判開始。
寺社奉行、模型の完成度に驚嘆。
長左衛門と隣村庄屋はそれぞれ、主張裏付ける証文や行政文書も合わせて提出し、争議開始。
(今日の)英雄達の選択
①証拠優先で裁く。(生活に直結することで、切実な問題。藩の利権でもあり、誰もが納得できる結論でないとダメなのではないか)
②双方が暮らしていけるように判決を出す。(証拠で優勢だからと言って、片方が一方的に勝利する判決を出した時、負けた側は生きていけなくなってしまうのではないか。それに配慮すべきではないか)
ジオラマについて、江戸時代の初期にすでにこれだけの測量技術を農民が持っていたことがすごい。
また、その技術や知識を裁判などに利用する知恵も持っていたことも素晴らしい。
江戸時代、坂川、洪水がよく起こり、百姓たちは困っていた。
そこで、百姓たちは、幕府に助けてくれと訴えるが、その時にただなんとかしてくれというのではなく、ここの流れをこういう風に変えてくれれば洪水が起きなくなるというような具体的な治水プランを幕府に提案することで、治水工事を実現した。
土木工学的、河川工学的知識や技術を百姓達が持っていた。
自分たちで問題を解決する能力が高い。主体性を持って要求する、江戸時代の百姓の底力。
渡辺「② 。幕府の判決はケースバイケースで、①の判決が出ることもあったが②の判決が出ることもあった。今回の件では、双方とも言い伝えや文書など提出しているがどれも幕府を納得させられるほどのものではない。それならばどちらかに偏った判決を出すのではなく、両者が共に生きて行けるようにはからうのが良いのではないか。(←現代だと示談に相当すつ考え方かな?)私が江戸時代の奉行ならそう判断したと思います。」
岩下「①。私は近代文明の研究者ですし、近世に近代文明の萌芽を見たい。近代文明の考え方が理想だと思っている。証拠優先で裁くことを諦めるべきではない。法的グレーゾーンの方な部分を可能な限り無くすのが社会を作るのが良いという立場。」
磯田「②。生きていけることを最優先にする。飢餓や流民が起こるのが社会にとって最も有害な結末。ここは恣意的であっても全員が問題なく生活を続けていける線引きを新たにしてしまうのが良いのではないか」
史実「②。双方の提出した証拠と申立てでは、結局山の境界がどこにあるのか不明瞭なままだ。よって、双方の主張を斟酌し、幕府が新たな境界線を設定することとする。」
ちょうど山の半分で線引きすることとなった。
ジオラマ模型を元に、山の隆起に沿って境界線を設置し、双方に平等になるよう取り計らった。(ジオラマがあったからこそ出来たこと!)
判決は双方ともホッと一息つける判決で、歓迎された様子。
この裁判以降、幕府評定所に持ち込まれる土地争いは、それまでの大名同士による争いから、農民同士が主張を戦わせる百姓公事という裁判が主流になっていく。
10年後、現在の宮崎県、日向国で起こった大名同士の境界争いが幕府に持ち込まれた。
その時の奉行の発言が遺っている。「国や郡の境は、百姓達が知らないのであれば、誰がわかるというのか」土地の境界線は領主達ではなく、その土地に住む農民達の認識をもとに決めるべきという考え方。
山里裁判で使用された模型などは村人達の間で大切に守られ、受け継がれ、2007年国の重要文化財に指定された。
渡辺「江戸時代には今のような三権分立の仕組みがありませんから、司法と行政が一緒だった。行政にとっては政治的安定性が最も大切。そのためには双方が満足する判決を出すことが一番だった。行政官でもある奉行所の役人はそうした政治的効果を狙った」
岩下「こういう裁判が幕府に持ち込まれるということは、幕府は(正当な判断をしてくれると)信頼されていたということ。自分たちには訴えるところがある。そしてそこはちゃんと判断してくれる。不都合とか災害が起きた時に、政府が対応してくれるという信頼関係ががあることが重要。」
磯田「おそらく奉行所には初めから中分(下地中分)するつもりだった。しかし、正確な測量に基づかないところに線を引いてしまうと後々の問題の種になる。この場合、たいまつにする木材が欲しいのだが、松明を採るならヤニがいっぱい入っている杉がたくさん生えているのが有利になってしまう。幕府は初めから生産資源の配分をやるつもりで、そのために正確なそぅ量と樹種とその分布まで把握する必要があった。力の強い方が強引に現状変更しないように幕府の権威で守った。力の強い側にとってもきちんと守れる線引きにすることで幕府の判決にきちんと従わせることが出来た。そのことが幕府の権威を強化する。」
磯田「裁判を見ると、百姓から領主に対する考え方、領主から百姓に対する考え方がわかる。長左衛門「村長は村人の親」これは領主や政府にも言えること。ちゃんとそう接しているか。親と子の関係だから、当然上下関係がある。あと教育権もあるが、慈しんで育てる必要もある。裁判を受ける権利、尊重される権利、幸せを考えてもらえる権利を持っていたことがわかる。非常に近代的。こういう例を見ていると、権力者に阿るだけの危険性をひしひしと感じる。」
岩下「村の重要な記憶遺産として考えていたからこそ大切に受け継げれていった。」
磯田「確かに『世界』記憶遺産に推すべきかも知れない。西洋とは違った日本独自の思想に基づく裁判(争いごとの解決)方法として。」
磯田「このような政体では(君主制?)では、政府が国民の幸せを考えているかどうかが非常に重要。これがないと結局政治が持たない」