ドキュメンタリー映画は、先ず何よりも制作者が明るみに出したい、と思っている事実に関するものだが、それをコンテンツと呼ぶと、そこで提示される事柄のオーセンティシティ(Authenticity)、真実性ともいうべきものはプロセスと見なすことが出来る。
たとえばインタビューで問いに答える者の非言語的メッセージつまり話しぶりや顔や身体の表情などはしばしばコンテンツを裏切り、話者の本音や矛盾、さらには人間性の軽重や誠実さなどをあからさまにする。
それ故、ドキュメンタリーにあってはストーリーを知ったからと行ってドキュメンタリー映画固有のものは把握したことにはならないから、先ずは「見るべし」なのである。
このドキュメンタリーでは、安倍・菅元前総理、新しい教科書を作る会の東大教授、長府元市長、篭池元園長、大阪の中学校歴史教師、倒産した教科書会社の編集者、維新の吉村や松井などの顔ぶれが会見やインタビューを通して、彼らの隠しようのない人間性やオーセンティシティを暴露する。そこがとても魅力的だ。
そういえば数年前、「主戦場」というドキュメンタリーがあったが、それに出演した歴史修正主義者が、上映の差し止めを求めて敗訴したことがあった。おそらく彼らは自分の本性が露呈したことに狼狽して差し止めを求めたのであろうと推測する。
これらのことを前提に、フィルマークスよりあらすじを引用する。
いま、政治と教育の距離がどんどん近くなっている。軍国主義へと流れた戦前の反省から、戦後の教育は政治と常に一線を画してきたが、昨今この流れは大きく変わりつつある。2006年に第一次安倍政権下で教育基本法が改変され、「愛国心」が戦後初めて盛り込まれた。2014年。その基準が見直されて以降、「教育改革」「教育再生」の名の下、目に見えない力を増していく教科書検定制度。政治介入ともいえる状況の中で繰り広げられる出版社と執筆者の攻防はいま現在も続く。本作は、歴史の記述をきかっけに倒産に追い込まれた大手教科書出版社の元編集者や、保守系の政治家が薦める教科書の執筆者などへのインタビュー、新しく採用が始まった教科書を使う学校や、慰安婦問題など加害の歴史を教える教師・研究する大学教授へのバッシング、さらには日本学術会議任命拒否問題など、⼤阪・毎⽇放送(MBS)で20年以上にわたって教育現場を取材してきた斉加尚代ディレクターが、「教育と政治」の関係を見つめながら最新の教育事情を記録した。教科書は、教育はいったい誰のものなのか……。
教科書検定を始め教育基本法や閣議決定などによって、教育現場に直接介入をしてきたのは、安倍晋三である。
映画を見ていて失笑を禁じ得なかったのは、国会で嘘をつきまくり、野党の国会開会要求の無視など議会制民主主義の根幹を腐食しながら、その安倍が国民の道徳の必要性を説く場面である。
「日本人というアイデンティティを備えた国民を作ることを教育の目的に掲げ、教育目標の一丁目一番地に道徳心を培う」
と宣(のたま)うのだ。
安倍自身はアイデンティティも道徳もその意味を知り
かつ身につけているだろうか? あなたはどう判断されるだろうか?
どんな日本人としてのアイデンティティを彼は持っているのか?
それは議会制民主主義を踏みにじったり嘘をつきまくったりするーこの嘘はすべて自分のためについた嘘だーこととどう整合しているのか?
そして講演で、街頭で、国会での彼の表情をや態度を見ていると、言っていることの真実性は感じられない。
出演者のそれぞれについて、是非真実性という物差しで見て欲しい。
日本人は「長いものに巻かれろ」「空気を読め」と権力にはとても弱い国民性だ。だから「肩書き」で言っていることの正しさを判断してしまい、そこで大概は判断停止してしまうので、言っていることの真実性を追求しようとはしない。そして追求する者に「理屈っぽい」とか「空気が読めない」などと言って抑制する。それだから、左翼とか非愛国的とか単なるレッテル貼りに盲目的に左右される。言っていることの「ファクトチェック」は、映画では表情や態度で出来るし、するべきだ。
この映画には直接触れられていないものの、教育現場で今起こっていることが心配だ。
教師は教室での「教え」以外に沢山の仕事を押しつけられ、部活の責任まで負わされて心身ともに疲弊していると聞く。
臨時雇いの教師の増加、教員資格の有期性、、、
何よりも心配なのは、教師が人間としての尊厳を奪われるような状況(過労も含まれる)にあるのではないか、ということだ。
教師の、自分の人間としての権利が尊重され守られてこそ、生徒に尊厳を守る事を伝えることが出来る。教育の画一化の反省からスタートした戦後の教育基本法は教師の授業を主宰する意義を認めたはずだが、自民党対日教組という闘いの中で画一化の方向に大きく偏ってしまう。
画一化で指導要領にあるとおりの授業を強いられる、いわば教える機械に貶められれば人間としての尊厳は毀損される。
自称愛国者の日本会議の面々は、日本の歴史を美しく飾ることで愛国心が生まれる、と理解しているようだが、愛国心は美しく飾られた歴史から生まれるものでは無い。今日この時、この場所に置いて自分が一個の人間として尊重され、生かされている、という覚知、愛国心は何よりも自分の魂の自由が尊ばれている、という確信から その価値を守らなければ、その自由が奪われてはならない、というところから生まれるのだ。
愛国心は愛国教育から生まれるのでは無い。
愛国心は人権の尊重から生まれるのだ。
ウクライナを見よ!
彼らはロシアの抑圧を二度と味わいたくない、魂の自由をもとめているのだ。
以下に予告編を貼る。
ロシアのウクライナ侵攻の戦争の生々しい実態が放送されている今、ウクライナ兵士、志願兵を含めてウクライナ人が武器を取ってロシア軍に対峙している。その彼らの原動力はなにか。
一方我が国では戦争で、短絡的に防衛費の増額を叫ぶ者たちがいる。
奇しくも愛国心を唱えた安倍晋三を始めとする政治家たちだ。
そして防衛費の倍増と増税、福祉の切り捨てを叫んでいる。
少子高齢化やエネルギーと食料自給率が低い構造的問題、原発の防衛の問題など真に国を守る課題に眼を背けたまま、あるいは意図的に眼をそらして防衛費の増額だけを叫ぶ彼らの意図は明白だろう。
非稼働中のものも含めて原発にミサイルを撃ち込まれたらどうする?
どの国でもミサイルは移動可能な車両に装備されているからそれらを破壊するのは不可能に近い。
日本を占領する他国のメリットはなんだろうか?
トヨタの工場を占領してなんになる?
このグローバル化した世界で。
日本は恐らく原発へのミサイル攻撃と、東京・名古屋・大阪近郊の港湾施設を破壊すれば即兵糧攻めに会うだろう。
武器が、最新鋭の高価な兵器が沢山在っても誰がそれを扱うのか?
この65才以上の高齢者が、人口の3割になんなんとする日本で。
そして高齢者の政治家や右翼が、若者を戦争に駆り立てるべく愛国心を声高に叫んでも、その若者達が日本に愛着を持てない状況にあるのだとしたら、誰が国をまもるのか。
こんな皮肉な状況はあるまい。
そして愛国心とは何か、について今ほど考えるに相応しい時はないだろう。愛国教育で愛国心を涵養できる、と言うのが敗戦前の日本に郷愁を抱く者たちの先入観だ。だから戦前の道徳を復活し、教育勅語をかかげ、日本神話を引っ張り出す。多少の歴史的知識があればこんな時代錯誤は無いが、マスコミを支配することで憲法を改悪し、それが可能だと彼らは考えている。
多くの若者は、臨時雇用だ。経済的徴兵と言う言葉があるように、貧窮に追い込んで軍隊を唯一の衣食住提供の場所とする。
そうした兵隊は果たして国を守る強い動機は持てるのか?
よくよく考えてみるべきだ。
ウクライナの人々は長い歴史の中でロシアーソ連ーロシアの抑圧に苦しみ度々の独立も制圧されてきた苦い過去がある。かれらはようやく自分たちが選んだ政府のもとに、自分たちの運命を自分たちで切り開こうとしている。それが愛国心の源泉だ。
追記:最初に「誰が橋下徹をつくったか」の著者、在阪のジャーナリスト松本創氏の寄稿文。
次には映像記事として、津田大介氏のポリタスの無料公開映像を以下に貼付ける。ご存じのように津田氏は「表現の不自由展」で同根の極右に開催を妨害された経緯がある。
是非ご覧頂き、次には映画を実際に見ていただきたいと思う。


