監督のギャスパー・ノエ はWikiによれば「観客を挑発し続けるフランス映画界の鬼才」と呼ばれているそうだ。
大体「鬼才」などという尊称?は、意味ありげだが、よくわからないものを作る作家を奉って脇ー傍流に追いやるためのものである。
まずは映画。Comから解説を借用して、この映画の概要とする。
フランスの鬼才ギャスパー・ノエが、ドラッグと酒でトランス状態になったダンサーたちの狂乱の一夜を描いた異色作。1996年のある夜、人里離れた建物に集まった22人のダンサーたち。有名振付家の呼びかけで選ばれた彼らは、アメリカ公演のための最終リハーサルをおこなっていた。
激しいリハーサルを終えて、ダンサーたちの打ち上げパーティがスタートする。大きなボールに注がれたサングリアを浴びるように飲みながら、爆音で流れる音楽に身をゆだねるダンサーたち。しかし、サングリアに何者かが混入したLSDの効果により、ダンサーたちは次第にトランス状態へと堕ちていく。「ザ・マミー 呪われた砂漠の王女」のソフィア・ブテラ以外のキャストはプロのダンサーたちが出演し、劇中曲として「ダフト・パンク」「ザ・ローリング・ストーンズ」「エイフェックス・ツイン」などの楽曲が作品を盛り上げる。
前半部に集まったダンサーたちにインタビューする部分があり、次いで踊りの稽古の場面が続く。それがこの映画のドキュメンタリー的な見せかけを凝らして終わり、第二部で彼らがドラッグでハイになり、何者かがパンチボールの中に薬を入れたことに気が付き始め、ラリったままで犯人追及が、つまり支離滅裂な追及が始まる。それは次第に暴力的なものになり、死と隣り合わせのものになり、なるべくしてセックスー兄妹の近親相姦を含めてーに至る。
ノエ監督がこの映画をもって来日した際のインタビュー記事がある。
長ったらしいので適宜省略する。
物語は実際の事件を基に、ノエ監督が大きく脚色し、演技経験のないダンサーたちによる即興の会話劇と、その身体能力をフルに活かした目くるめく狂乱を実験的な手法を用いて映像化した。
「ドラッグの混入は僕の脚色で、犯人は誰かということを明確にせず、ダンサーたちの変質を撮りたかったのです」
前半はとりとめもない会話、後半は衝撃のクライマックスに向け、ボルテージを加速させていく音とダンス、理性を失った登場人物たちを捉える2部構成となっている。「前半の会話でシナリオに書かれているものはひとつもありません。基本的に今回の作品は順撮りで進めました。そうすることによって、登場人物たちの心の変化と演じている人たちの変化がリンクしやすいのです。最初のダンスは振り付けを入れて撮りましたが、それ以外のダンスは全て彼らに任せました。脚本はないので、僕はカメラの後ろで『僕を笑わせてみて』なんていう指示をするのです」
酩酊状態に変化していく人間の姿を映していく一方で、文字を使った視覚表現がアクセントになっている。
最後の文字を使った省略表現だが、それは
「生きることは集団不可能性」
「死は特異な体験」
などというものであり、訳のわからないことを言って人を惹きつける、例えばフランスの哲学者ジル・ドゥルーズのやり方を活用している。
訳の分からないことを言うと、必ずそれを「分かった!」と言うものが私を含めて出てくるのだ。あとはそれを高みの見物をすれば何となく権威がまとわりつくようになる。
(この意見に賛成の方は岩波現代文庫の「知の欺瞞」などを推奨)
インタビューの最後はこう締めくくられる。
「多くのカップルが人生の楽しみと捉えてセックスを実践していると思う。それを良くないことと非難する、最近のヨーロッパ社会は精神分裂気味だと感じています。性的な営みを、正しい、正しくないものと捉えるのは危険だと感じるし、子どもたちが性を悪いものとして捉えるという弊害が出てくるのでは」と持論を述べた。
まったくもって精神分裂気味だ。
ギャスパー・ノエ監督作品は「アレックス」を見
最近も「エンターザボイド」を見たのだが、汚らしくて不潔で、途中で見るのを止めてしまった。
やはり「鬼才」として脇に奉って(放って)置きたくなるのだ。
アレックスもこの映画も背景のトーンは血の赤である。
これにもまた意味を見出すべきだろうか?


