#沓掛時次郎 #長谷川伸原作 #加藤泰監督 #中村錦之助主演 | Gon のあれこれ

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読後感、好きな太極拳、映画や展覧会の鑑賞、それに政治、ジャーナリズムについて、思いついた時に綴ります。

いわゆるチャンバラ映画・時代劇がやくざ映画に取って代わられつつあるとき、錦之助がどうしても時代劇を、と念願して制作された「沓掛時次郎ー遊侠一匹」。

そのあらすじは

1 沓掛(中軽井沢の宿場町。両隣は軽井沢宿と追分宿)時次郎(錦之助)は弟分の朝吉(渥美清)と佐原(千葉県)の勘蔵一家に草鞋を脱ぐ(一宿一飯に与る)が牛堀(茨城)一家と抗争の気配を知って草鞋を履く(旅立つ)が功名心に逸る朝吉は単身牛堀一家に殴り込みをかけ返り討ちに遭う。

2 朝吉の供養を済ませた時次郎は渡し場で子連れの女(池内淳子)から熟柿を振る舞われ、その母子と少し旅をともにする。

3 中山道の鴻巣(埼玉)で鴻巣金兵衛一家に草鞋を脱ぐが、草鞋を履いて旅に出ようとすると抗争中の中野川一家の最後の生き残り、三蔵(東千代之介)を殺ってくれれば、一宿一飯の義理は問わないと金兵衛に言われて、三蔵と切結び、今際に三蔵から「自分の妻子を妻の故郷である熊谷の叔父の所へ届けてくれ」と頼まれる。

4  その妻子は渡しで熟柿をくれた母子であった。熊谷に着くとおきぬの叔父は厳しい年貢の取り立てを苦にして首を吊り、身寄りを失ったおきぬに時次郎は自分の故郷「沓掛」に行こう、と言うが、おきぬは自分の夫を殺した時次郎に好意を抱き始めたことに罪の意識を感じ、時次郎のもとから居なくなる。

5 一年後の冬、分かれた女の思いを宿の女将に話していると、門付けが唄う故郷の追分が聞こえ、外に出てみると案の定おきぬ母子であった。

 

 

6 おきぬは既に肺を病んでおり、治療には高価な薬が必要だ、と医者に言われ、もう一度だけ、と八丁堀一家に助太刀をして大枚を稼ぐ。

7 取って帰ってみるとおきぬはすでにこと切れており、時次郎は遺児太郎吉を連れて旅立つ。

8 道中 昌太郎なるヤクザ志望の男に弟子入りを志願されるが、

「昌太郎さん、ヤクザってのは虫けらみたいなもんだ。悪いことは言わねえ、百姓に帰んな」と諭すが、時次郎を切って、と功名心に逸る男は時次郎に切りかかるが簡単に川に蹴飛ばされる。

切ろうとするとき太郎吉が必死で立ちはだかり、時次郎は今度こそ刀を捨てる決意をして坊主を連れてその場を去る。

 

映画評論家であり映画大学校校長を務めた佐藤忠男の長谷川伸論

 

 

 

によれば、1の朝吉のくだり、と8の昌太郎の件りは原作にはないものだという。

朝吉の件は、いわば「義」兄弟の絆の挿入を意図したものだろう。

そして8の昌太郎の件は、親分が自分の勢力拡張のために子分や一宿一飯の義理で旅人ヤクザを絡めとってそれらの命を虫けらのごとく扱う、と言うことを言いたかったのだろう。

またおきぬの死因は労咳となっているが、原作ではおきぬは夫三蔵の子を身ごもっており、そのお産で死ぬ。時次郎とおきぬの、夫を切った男との許されぬ愛が義理人情を一層切なく、ドラマツルギーを高めている、と言えるだろう。

 

監督の加藤泰と錦之助は1962年「瞼の母」を世に出しており、息の合ったコンビだが1965年東映京都撮影所の役者が30数人で労働組合を結成し、委員長だった錦之助は大川社長とのもめ事の責任を取って退社の成り行きであったが、京都撮影所岡田茂所長のとりなしで、錦之助が高倉健らのやくざ映画にも出演することを条件に「円満退社」の形にこぎつけたものだという。

 

時代劇とは概ね明治維新のころまでの時代を題材にした映画、やくざ映画とは国定忠治や沓掛時次郎、清水の次郎長などの映画の侠客物の主題「義理人情」などを現代に置き換えたもの、という一応の区分を前提にしておく。(Wikipedia時代劇、ヤクザ映画の項より)

 

こうした経緯で錦之助は1964年高倉健と「日本侠客伝」を、翌65年「顔役」を同じく健と撮っている。

 

先の、雪の中 時次郎がおきぬに駆け寄るシーンだが、佐藤は

「門付けという賤業のおきぬを足元から仰ぎ見るような角度で撮っている、前の場面では時次郎がおきぬを想って泣いていた。その思いとのモンタージュによってこの場面の情感が一層濃くなる。時次郎はおきぬの亭主を切った男だから、どんない好きでもおきぬに愛を告白することが出来ない。時次郎にとって、三蔵殺しは原罪であり、おきぬは十字架である。時次郎はおきぬを仰ぎ見る、というかたちでしか愛せない。あたかも彼の想念がぱっと浮かび上がってきたかのように彼女は仰角で見られなければならないのである(同書p43抜粋)」

 

この映画での、極端なローアングル、場面と音の同時録音、例えば渡し場での熟柿を渡すなど花や果実の象徴的利用、おきぬを想って泣く3分の独白ショットなどが監督加藤泰の特徴と言われる。

 

さて義理人情だが、「一宿一飯」の義理、は佐藤によれば、長谷川伸の父が土建業の下請けをやっていた伸が15歳頃のとき、当時の土工の社会には西行などと呼ばれる渡職人がおり、腕を磨くために工事現場を渡り歩き、現場に着くと適当な人をつかまえて「どこの誰に教わってこの業を学び、名前は何で生国はどこ」という辞儀をいう。

辞儀を受けた者は、親方にとりなし、都合が良くまた気に入れば雇うがそうでないときは草鞋銭をやって発たせる。時刻が遅ければ一宿一飯をふるまったそうである。やくざの仁義として伝説化されている特殊な口上はかつては堅気の職人の社会でも共有されていたものだ。

またその親方の所で仕事の縺れから喧嘩の出入りがあると、助っ人になるが、日当や祝儀が付いたそうである。こうした伸の具体的な経験も見聞と共に伸の作品には織り込まれているらしい。

こうした習慣が博徒という日陰者の社会に押し込められたのは、

「国家が一宿一飯の掟を完全に独占した時、地域や職能社会における独自の掟は封建的なものとして否定されるに至る。

その結果否定され切り捨てられたものが博徒のイメージに集約されていくと美化され、一宿一飯の相互扶助は悲劇的英雄の試練の掟になり、辞儀も仁義として途方もなく美文化される。(同書49p前後)

というあたりに佐藤忠男独自の鋭い歴史的視点がある。

 

この沓掛時次郎では、彼がやくざ社会の掟に殉じて何かやるとおきぬ母子のように、自分より一層弱くてかわいそうな人間を、もっとかわいそうな境遇に追いやることになる。それを時次郎は己の原罪として背負うのである。その負い目を感じて尽くす、というところに、「愛」や「ヒューマニズム」という外来の観念では組みつくせないもの、組織や国家に対する「忠」とは決定的に違う「忠」があるのである。

すべての男は、すべての女に負い目があり、すべてのやくざは、すべての堅気に負い目があり、すべての大人はすべての子供に負い目がある。それを自覚するかどうかが、良い人間と悪い人間との違いであり、その自覚を促すことが彼らのドラマツルギーなのである。(同書24p) 

(一方)「義理と人情をはかりにかけりゃ、義理が重たいやくざの世界」というのがあって人口に膾炙しているが、「義理人情」を義理と人情に分け、義理―公、人情ー私

と対立する概念とみなし、当然のことのように「公」は「私」に勝るという結論を出している。たしかに凡百のやくざ映画はその程度の義理人情観で作られている。

少なくとも長谷川伸=加藤泰監督的な世界では、義理人情という観念はもっとドラマチックな内容を含んでいる。日本人は古来「義理人情」をひとつながりの言葉として使ってきた。

なぜか。義理とは、相手に対する負い目である。義理人情とは、相手に対する負い目を正しく認識することこそが人間の自然の情であり、モラルの源泉である。

だから「義理人情のしがらみ」とは、いくつかの方向に同時に引き裂かれる忠誠心の分裂の葛藤のことであって常に義理が人情に優先するという事ではない(同書25-26p)忠誠という観念を、主家とか主君とか国家とか、いつも自分より上位にあるものに対する義務として理解するように馴らされてきた我々は、義理という観念と忠義という観念の間の微妙なニュアンスを識別し難くなって、義務という観念をあっさり公への忠誠という観念と重ね合わせてしまう。

弱者の命がけの連帯、という古典的任侠道の中に、親分への忠誠のためには私情を犠牲にしなければならぬ、というような(武士道的)モラルが導入される。これは任侠道の堕落である。((同書p28-29)

長々と引用したが、現在の我々には遠くなった世界を、しかも

固定観念に塗り固められた観念を正そうとする佐藤忠男の意志を尊重するには、最大限の要約をしてこれぐらいは必要なのであった。

 

この映画はレンタルで鑑賞したのだが、実は発端は最近の脳神経科学の知見、ミラーニューロンであった。「我々はスクリーンの中の人物になぜ涙することが出来るのか」についての叙述を構想するうち、「反」共感論、仏教の慈悲、大和心としての「もののあはれ」そして義理人情に来ったのである。

義理人情については、佐藤忠男の「長谷川伸論」のほか、

源了圓の以下の書がある。

 

 

この書は1969年であるから、「長谷川伸論」の二年前の刊行である。

知る限り、佐藤は源の書についての言及はないが、別の機会に源のこの書を参照できれば、、と思っている。