シュヴァルの理想宮は、1969年時の文化相アンドレ・マルローによって、「歴史的建造物」
に指定された。
この事実を知って直ちに想起したのは、マルロー(1901-1976)が若い時に、
アンコールワットの女神像を切り取って逮捕されたこと。
もう一つは同じ文化相の時代に、画家バルテュスを「パリ日本美術展」開催のために
日本に派遣し、その時通訳をした出田節子に惚れてその後再婚して添い遂げたこと。
マルローはドゴール政権(1959-1969)時代に1960年から69年まで文化相を務めた。
2017年2月にアンコールワットを観光した時のブログ から抜き書きする
第4日目の目玉は、バンテアイ・スレイ。
アンコールワットの北東35キロ.約一時間半の道のりだ。
後のフランス文化相になる若きアンドレー・マルローがここにある彫像を盗み出そうとして捕まった事でも有名で、クメール美術の最高峰とされるがアンコールワットより一世紀前の建設である。
東洋のモナリザは奥まった塔の左面にあるが、4メートル前後からではよく見えないぐらい小さい。ここで持参のVIXEN単眼鏡 6*16が役立った。
ガイドさんに、確認するとマルローが盗んだ彫像はこの反対側の対称位置にあり、顔が削り取られている。なんという暴挙!
いかに魅了されたといえ他民族の文化に対する何たる傲慢さ!
こんな人物がフランス「文化相」を務めるとは!
スペイン内戦やレジスタンスに参戦するなど血の気の多い人物だろうが、異文化に対する敬意の乏しい人間を文化相に据えるとは任命者のド・ゴールともども傲慢不遜な奴だ。
ふつふつと怒りがわいてくる。
このフランス文化優越感がムスリムの人たちの根深い「恨み」の、そしてそれが、テロを誘発する温床にならなければ良いのだが、、、
マルローは魅了されて盗んだ、と解していたのだが、どうもそうではなく「一攫千金」を
狙って盗んだようだ。
マルローはパリの東洋学校に学び在学中ドイツ系の財産家の娘と結婚。
その財産を株につぎ込んで暴落、財産を摩ってしまう。
第一次大戦後フランスはドイツからの賠償金を目当てに財政を膨張させたが、どうやら
その賠償金が取れそうもない、と分かって暴落したらしい。
その起死回生に、妻と友人で他国の財産を盗もうとしたのだから歴とした犯罪者である。
しかし、ヴィシー政権下、ドイツに対する恨みもあったかもしれないが、対独レジスタンス
運動に身を投じ、ドゴールに知己を得てから政治の中心に躍り出る。
第二次世界大戦後民族独立運動が激化して、フランスはインドシナ独立で領土を失うが、
形の上ではフランスの県であったアルジェリアでの独立運動が激化して、その収拾の
為にドゴールが登板し、1958年10月第五共和政が発足、マルローは情報相から60年
には新設の文化相に就任する。
「脱構築」のジャック・デリダは、1930年にこのアルジェリアに生まれたユダヤ系フランス人
で、ヴィシー政権下ドイツに阿ねた地方政府はユダヤ人の国籍をはく奪したり、デリダの
のような優秀な成績の生徒を学校から追放したりした。そうした経験がデリダの「境界」
に対する鋭い感受性を育んだと言えるだろう。
ついわき道にそれたが、マルローは文化相の時、バルテュスをローマのフランスアカデミー
の館長に任命し、パリで「日本美術展」開催の際の展示作品を選定するため来日する。
バルテュスについては2014年の展覧会 の観賞記を書いたが、戦時中ユダヤ系の
ポーランド人として亡命生活を送り、ジュネーブでレジスタンスの闘志マルローと
知り合ったらしい。
尚バルテュスの母がリルケと同棲したことで彼も一緒に生活するようになるのだが、
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この書の巻末にあるリルケの個人史には記載がない。
リルケは目まぐるしく女性と同棲を繰り返したから、逐一書いてないのかもしれないが、
画家バルテュスとの関係は記載に値すると思うがどうだろう。
勿論求婚したルー・ザロメのことは触れられている。
尚文学者マルローについては、小説と言えば若いころはゲーテやモーパッサンのベラミ
など10指に満たない位なので読んだことは無いが文化相としてはよく承知していた。
尚、映画「シュヴァルの理想宮」についてはブロ友のvingt-sannさんの細やかな鑑賞記
がある。ご自身が絵付け作家なので、違う味わいがありいつも読ませていただいている。
ぜひご一読をお勧めする。