「絶望の裁判所」 瀬木比呂志  | Gon のあれこれ

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読後感、好きな太極拳、映画や展覧会の鑑賞、それに政治、ジャーナリズムについて、思いついた時に綴ります。

三重県松坂市の山中市長が、閣議決定による「解釈改憲」を憲法違反として違憲確認訴訟を検討している、と伝えられるが、わが裁判所はこのような「違憲裁判」を正面から取り組む態勢が果たしてあるだろうか?と言う疑問が拭えないのでこの書を手に取った次第。

最近長年にわたる冤罪事件が「無罪」で決着を見る例がいくつかあるが、検察の言い分を重視乃至絶対視して来た裁判所からの反省乃至改善の意向を聞いた例がない。

「それでも僕はやっていない」と車内の痴漢事件を取り上げた周防監督作品があるが、この種の事件に巻き込まれる危険は男性、誰にでもあり、現在の司法二者警察、検察の長きにわたる拘留と裁判所の検察盲従の有り様を見ると安閑としてはいられない。

因みに私は混んでいる電車に乗るときはつり革に両手を掛けるか、片手を掛けてもう一方の手で本を読むことにして自衛している。
酷いのは、和解金狙いで訴える女性が居るそうだ。

最初の疑問、違憲裁判の件に関して、著者瀬木は、「統治と支配の根幹はアンタッチャブル」(P121)と「時代や社会の流れが悪い方向に向かっていった時に、その歯止めとなって国民、市民の自由と権利を守ってくれるといった司法の基本的役割の一つについて殆ど期待できない」(P141)と述べていることから併せると結論は明らかだろう。

憲法第76条で「すべて裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される。」とあるが、実際は最高裁判所、とりわけその事務総局が中央集権的、ヒエラルヒー的支配を強め、陰に陽に「祭ろわぬ者」はおろか「自分の意見を言うもの」さえ排除して来た結果、裁判官は精神的にあたかも「収容所群島」の囚人の如く面従を強いられ、誇り高き者は屈従を強いられている状態(p83~)らしい。

これは最近裁判官が絡む性犯罪などの例をみて肯ける分析だ。

筆者は東大在学中に司法試験に合格、裁判官に任官後米国留学をするなどエリートコースを歩んでいたが、まさにその故中枢の腐敗を目撃する中で悩み苦しんだ結果、退官して明治大学教授になった。
専門分野の民事訴訟の専門書のほか、関根牧彦の名前で思想・心理・映画・文学など多岐にわたる評論などがあって、なんとか「外部適応者の内的不適応」を免れてきたらしい。




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