前回の似ている点、の続きとしまして、、








さらに深掘りしていくと、行き着く点、結論のような話に、今回はなります。










「主体の不在」









この話は、主体の不在が明らかになるだけです。








誰かに起こるわけではありません。








主体の不在が明らかになる、誰か はいません。








なぜなら、主体が不在だからです。








よくある勘違いは、主体の不在が分かった「私」がいる。








「私」は、主体の不在が明らかになった。








などなど、主体の不在が、分かった主体がいる。









なにか、おかしな話ですよね。









主体の不在は、主体、自己の不在である。










当たり前の話ですが、なかなか思い違いが多い。









「私」が理解したい、分かりたいとの希望は1パーセントも無い。









希望は1ミリも無い。








希望は無いと、分かっているけど、、

希望は無いと言いつつ、、どこか奥底に希望が残っている。








希望を持てる誰かはいないのに、、、









このパラドックスに多くの方がハマるのだろうと思う。










このパラドックス自体、勝手に起こっているだけだろう。









自己の不在が明らかになりたい、が勝手に起こっているのだろう。